2014年10月27日(八段語録2211)
自然は私の為のもの

 私の人生設計を振り返ってみると、十代後半までは、柔道と勉強に明け暮れました。その後、修行の人生を始まったのということです。核心的人生を歩むために、修行が始まったのです。それは、下積みという事での外的なものでした。パシリのような使われ方をしたのです。そこから現在のものよりも大きなもの、価値の小さな所からより価値あるものを求めていったのです。ちょうど体を思う存分動かしながら、精神を築いていこうとする極真空手に似ているように思えるのです。そして、世間と環境での関係で、上下関係、前後関係、左右関係を連結することを学び、環境的な制度をしっかり学習して、人生を発展させようとするのでした。
 さて、地球は人に似ています。私も呼吸していると同じように地球も呼吸しているようです。地面も私に似て呼吸しているようです。その気道は、磁石に磁力を持ったものを近づけると、その磁力線に沿って動きます。人の気道に似ています。地球の表面にある木は、私の髪の毛のように思えます。次に、地面は皮膚と同じで、その下に筋肉と脂肪の層があると同じように地層があり、その次に骨のような岩盤に入って、さらに溶岩層に入っていくのです。これを見る限り、私を象徴しているように思えるのです。
 ところで、家庭では、なんだかんだ言っても、基本的原則に従って父母を中心に生活しています。そうすると、鉱物、植物、動物もやはり基本原則に従って存在しているということです。私の体も五官を中心としたすべての系統に従って全体の体が編成されています。このような全体を糾合して一つの原則的な基本を突き詰めてみれば、調和的にすべてがなっているということです。
 私は、幼いころ、活動範囲がとれも広かったのです。母の実家に預けられたり、父の家に行ったり、親戚を回っていましたから、私の環境が五カ所にも六カ所にも広がっていたのです。町中で冒険しているかと思うと、泉ヶ岳のすそ野を散策したのです。それで、目に見える野原や山の頂上など、行ってみなかったところが無いのです。その山の向こうまで行ってみなければ、気が済まないのです。ですから、朝日に移るあの向こう側には何があるという事が頭に入ってくるのです。そんなわけで、座っているという事は無かったのです。故郷の山河、故郷の木、故郷の春の風とか、過去の事が生き生きと記憶に残り、鮮やかによみがえってくるのです。自然がとても好きで、家にも帰らず、自然と戯れ、駆け回り、遊んだ記憶をたどると、自然がそれほどまでに好きだったのです。