2014年10月26日(八段語録2209)
自然は誰のもの

 自然は誰の為に生じたのでしょうか。それは「私」の為にあるということです。私達に喜びを与えるためにあるのです。ですから、人間は、自らが動機になって得た結果に対して、幸福を感じる環境を作らなければならないということです。そう考えて見ても、高次元的な理念へ発展させるために極真空手があると思って良いのだと思います。そして、宇宙の生命力と生きなければならないのです。そのように生きようとする「私」自身が息を吐き出せば、全ての存在が新しく覚醒し、深く眠りにつけば、自然も眠るように思えれば幸せであるのです。実際はそのような事は無いと思うのですが、それでもそのように思えたら良いと思うのです。
 さて、このように考えられると、全てを統治するような気持ちになれます。また、そう思うようになるのは、この宇宙があまりにも神秘的であるからなのです。自然は、思い付きや、いたずらで作られたのではないと思うのです。自然はあまりにも美しいのです。この宇宙が私のためでなければ、何のためにあるのでしょうか。そのような思いを持って里山を散策し、草木と花を見つめ、鳥の鳴き声を聞いて鑑賞し、水が流れ、風の吹く全てを感じると、それがどれ程素晴らしい事かと思えるようになるのです。
 ところで、私はというならば、地の恵み、万物の恵み、空気の恵み、大腸の恵みを受けて生きているのです。私を維持するのに、自分のものは一つもありません。結局は誇るものは何もないということです。造られたものを摂取して生きようとするならば、私のために生じたものを大切にしなければならないというのは、理屈に合います。すべては自らの血と肉になるのです。これは、漠然としたことではなく、宇宙創造の前から、砂一粒のようなものでさえ、人間にとって将来、栄養素として、血肉となり、骨となって、骨髄に至ることが分かっているかのようです。
 このような事を考えて見ると、創造されている自然が、無限な力を持っているのです。私が、自然と調和しようとするならば、つまり自然に対して、マイナスになれば、無限の力のプラスが現れるはずです。つまり、私が動けば、自然と調和して、運動が始まるわけです。永遠で無限大の運動が無限に広がれば、私は永遠に存在するという考え方は、あるべきです。これからは、流れる川の水を見て、飛ぶ鳥を見て、キリギリスや昆虫、それらのものと調和しながら生きたとするならば、人間として立派な生活ができるようになるのではないかと思うのです。