2014年10月24日(八段語録2206)
生きている意味
孤独を愛するという気持ちを抱いて、一人暮らしている人と出会うのですが、幸せそうな顔はしていないのです。結局、いくら理屈を並べても、一人では喜びを感じる事ができず、例え、うれしいと思っても、喜びの刺激を感じる事ができないのです。結局、自分の体の中にある、生命の刺激は感じられないという事になるのです。このような事を考えると、孤独でいることは、一時的には良いのですが、生命の刺激を感じる事ができなくて、発展運動が起こることなどあり得ないことになるのです。
さて、人生には目的を持つという事は重要な事だと思うのです。私も色々と思い出を作ってきました。その思い出は、微かな記憶にしか残っていないというのも事実なのです。しかし、人生は、さらに続くのです。このように続く人生の目的はというならば、心を充実させ、感動と満足が満ち溢れた時に、悔いがないと思えるような気持ちになるのです。このような喜びという事を考えると、ある目的を成し遂げた時に感じる事ができるのです。強いて言うならば、刺激を受けに行くのが人生の歩みであるということも言えると思うのです。この刺激がたまらないから、生きがいが生まれるのだと思うのです。
ところで、良き刺激を受けるためには、正しい理念が自分の心の中に無ければ、正しい刺激を受けることができないと思っているのです。危険ドラックも刺激ではあるのですが、人を破滅させる刺激という事は間違いないことです。そうすると、感じるすべてのものが、人を生かす刺激であるべきで、倫理道徳に立脚した内容にならなければ、最大の幸福を感じる事はできないのです。一つの考え方に、この世界は私のためにあるという発想も必要です。それゆえに、人は、自らの動機となって、得た結果に対して、幸福を感じる環境を作らなければならないという話になります。ここに高次元的な理念として、愛情を発展させて良き刺激を受ける生き方もあるのです。
これらの事が、私が考えている、生きている意味であると思うのです。私が願う生活、目指す生活、それ自体が重要なのではなく、生きている意味の中心を探さなければならないということです。それは、私は生きているという自信、言い換えれば、誰よりもこの分野では優れているという自信がなければならないということです。私がこのような事を書くと、不思議に思うかもしれませんが、時には丘に座って、畑に腰を下ろして、朝から夕方まで、日が沈むまで、思索にふけるのです。時間も分からないような時もあります。そこで息を深く吸い込めば、なんとなく自然の空気が生命力を持って押し寄せてくるような気がするのです。これも、道を求めていく修道者としての歩みだからだと感じるのです。