2014年10月23日(八段語録2205)
自然を大切にする心を

 根白石の畑に行くと、外に出れば、鳥がさえずる鳴き声が聞こえます。町中にいると、鳥の鳴き声も、車の音で消されてしまうようです。ですから、里山にある畑は、自然に帰るための、良き環境という事になります。畑を耕すと、心地よい風が通り過ぎたり、雲の流れを追う事ができたり、太陽の光に満たされたり、様々な環境の変化に遭遇するのです。ですから、自然に対して、愛情を持って見つめると、千種類、万種類、全て比べて見るようになります。その中で自分が感じる事ができるものを追っかけているようです。これが、東西南北、東で出会い、西でも出会い、南でも合い、北でも合うようになると、なんとなく心がうれしくなります。
 さて、私も結構書籍を読むようにしているのですが、どんな書籍よりも、自然界を眺めている方が、心が喜ぶのです。それで、自然が第一の書籍なのだと思えるようになってきているのです。一年間、今年も農作業をしてみて、学ぶことが多いのです。理想的な姿を自然に見るのです。私がどうあるべきか、という事を考えると、自然博物館は実によく見せてくれます。すべての教材は自然にあるような気がします。それで、私も悟りを開くことができるのです。
 ところで、自然と言っても、鉱物があり、植物があり、動物があります。それはそれぞれ、私に働きかけてくることは間違いないのです。結構、自然に出会えば、私の足らなさを指し示してくれるようです。もちろん、足らなくても、幸せな境地に自然はしてくれます。何度でも書いてしまうのですが、私の手本になるような教材ばかりです。当然自然に照らし合わせてみて、私の人生行路がいかに恥ずかしい、矛盾した生活であるかということも感じてしまうのです。そのような意味では、自然が私の目の前に現れているという事は、自然が私を教育してくれていると思っていいのかもしれないのです。
 結論として、自然とどのような関わりを持つかという事が、大切であり、自然を通じて、学ばされ、物心がつくにしたがって、知能が発達するにしたがって、成熟すればするほど、自然は、私に教えてくれることが多いという事に気が付くのです。そのような事で、さらに、自然に溶け込みながら、この年になっても、まだ自然から多くを学ぼうとしているのです。付け加えるようで申し訳ないのですが、空手道という道を究めるにおいても、自然から学ぶことが多いと思うようになっています。