2014年10月22日(八段語録2203)
道場の良し悪し

 空手の技術だけを指導するような道場では意味がなさないのです。武道精神を通じて理念で指導しなければならないというのが、私の主張です。武道精神を形成する背後の目的は、一つの人格を形成し、完成させることです。すなわち、武道精神を持った人格体を求めていくということなのです。ですから、精神と理念を求めていく道場でなければならないのです。それでは、精神と理念は何でしょうか。最初からいかなる精神と理念もありません。強いてその主義に名前を付けるならば、極真精神であり極真理念という事になります。それは、今の民主主義を肯定しつつ、さらに武道精神を確立させようとするのです。
 さて、そのような主義は聞いたことが無いというかもしれませんが、手塚会長が主張していることにつながるのです。「家族・対話・自然」というのが、主義・思想の根幹をなしているのです。このような理念は、全てを肯定しながら、全体を吸収することができ、自ら吸収させることができる主義として、そこにはいかなる分派もあり得ないということです。なぜならば、その根本的な家族に対してはいるからなのです。この理念は、人を大切にするというところから始まります。愛情というのは漠然として辿っていくような道ではないのです。とどのつまりが、家庭は国家形成の基準になります。いくら大きな世界を形成するとしても、家庭が基準になるはずです。
 ところで、このようなレベルもなく、ただ強くなることだけを指導するようでは、何の意味も持たないということなのです。あくまでも、武道精神と理念の土台を、この道場で新しく出発させるというところに意味は大きいのです。ですから、今後伝統的な武道精神としっかりとした理念で人は成長するのです。そのような道場を良い道場と定義しているのです。過渡的には、強くなりたいと憧れて極真の門を叩くことは、悪くはないのです。人を収拾するための方便にはなるのです。
 したがって、私達の精神と理念の理想は、心の中だけで成就されるものではないのです。道場として結実するのです。今人が生きている現実的な生活の基点において、実現しなければならないのです。その生活というのは、生活基盤を標準にした理想の実現を計画するということなのです。そのような高い目標を置いているのがこの道場であることを重々理解して欲しいと思うのです。この道場で、人格を形成し、愛情的にも環境的にも満足を享受して、感謝と栄光を感じながら行くという事が、この道場の目標であるし、太鼓判を押して、良い道場であると宣言するのです。