2014年10月21日(八段語録2202)
純粋な道場生に教育せよ

 私の道場生に対して強調することは、純粋性です。こうでなければ、充実した人生など送ることはできません。それだから、家庭が子供を守り、道場が道場生を守るという事をしっかりするのです。これは自然な事です。何故ならば、人として必要な定着地はどこであろうかと考えるのです。純粋な心というところに収まらなければならないと思っているのです。このような事を言えるのは、極真魂ゆえ、という事になります。これは革命的宣言なのです。なぜ、人は神社仏閣にお参りするのでしょうか。そこは、聖なる所だからなのです。それを、人として実践するとするならば、純粋に生きるという事になるのです。
 さて、そう考えると、人の体は聖殿であり、何人とも人の体を侵害してはいけないという事になります。私は、今も変わらないのですが、修行時代は特に、自分の体に磨きをかけて、鍛えたものです。そして、怠慢にならないためにも、青春の狭間で、女性に近づくことを、ことさら避けたように思うのです。それは、淫らな自分に絶対にならないという事を自分に言い聞かせていたのでした。あくまでも純粋に極真空手を追求したのでした。特に体を自分勝手に扱うと、酒や、危険ドラックに走ることになり、男女の不純性行為に至るような事をいっぱい見てきました。
 ところで、極真空手の稽古をし続ける理由の一つは、千代、万代、自分自身を汚さず保存しようとするためということです。極真で稽古をするという事は、その保存された体を道場だけに限定されるように縮小することなく、それ以上拡大していかなければならないのです。そうすれば、どこでも愛情の理想と連結されるきっかけを作ることができるということです。実際に家庭が崩れることが多く、純粋性を保てずに、路頭に迷う人々が多いのです。私達は、お金を必要とし、知識も必要とし、権力も必要としますが、純粋に人と接することができないとするならば、良き妻との出会いなどあり得ないというのです。遊女にたぶらかされて、人生を台無しにするぐらいが関の山です。それだから純粋な心は、どこまでも保存しなければならないということです。
 大概、いい加減な愛や打算での愛情を考えようとすると、私達の心と体に闘いが起こるようになってきます。そうすると、結局、男女は恩讐になってしまいます。当然、いたる所で殺戮戦が起こります。ですから、純粋な心を育てるという事は重要な事になってくるのです。私も今でも、純粋であるがゆえに、目的をもって生きようとしています。そこには、夢があり、希望があるのです。まさに、人生のエベレストに登ろうとする勢いです。