2014年10月18日(八段語録2197)
指導者が模範を見せる時
道場生を呼んで、教育するときには、「私がこのようにしてきたので、このように行かなければならないと」と指導しなければならないのです。私も、還暦を過ぎてからは、家族に遺言を残すときには、「親父の人生は、世間に恥ずかしくなく極真の道を歩んできたので、この道を継承してほしい」という事が最高であると思っているのです。それが、遺産の中の遺産ということです。今まで、道場生にも、見本を見せてきたのです。全てを学んで実践できるように歩んできたつもりなのです。それを指導者として教育するだけだと思っているのです。
教育の本堂は、家庭ですが、修練所は道場なのです。私が、道場生に対して、思っていることは、苦しみの涙を見せないようにしているのです。それは、苦労は多い人生でしたが、そんな事を、何でも無かったようにしたいということなのです。何度も腹が立って悔しいこともありました。それでも、道場に来たならば、いくら辛い時があっても、平常通り同じ姿勢を取るという事をしてきたのです。理由は、道場生と一つにならない限りは、自由と楽しさは感じる事ができないのです。それゆえ、平和な思いを描きたいと思うならば、道場生と絶対に一緒という気持ちを持たなければならなかったということです。
ところで、私の教育の第一条は、世の中がみな悪く、自分たちが優秀だと思わないことです。そうではなく、誰とでも調和が取れるような人格を形成することなのです。そうしなければ、多くの人達が、極真会館の門を叩こうとしないのです。些細なことですが、私は、妻と言い争っているところを子供に見せたことは無いのです。気持ち的に合わない時はあると思うのですが、それでも、二人だけで解決して、子供の前には、何もなかったようにするのです。そうすることによって、子供達の前でも、希望峰の主人公のように思われるように努力するという事でした。それだから、スタッフを怒ったり、スタッフの前で嫌な顔をするという事は、無いのです。
結果、普通ありがちな口論という事は、全くしないのです。絶対に見せてはならないという事を肝に銘じています。もちろん、いろいろ言いたいことある時には、二人だけで静かな環境で話すのです。極真会館という組織ですから、いろいろなことがあります。活動してみれば、しつこく追及したくなるときもあるし、後ろ指をさしたくなるときもあるのですが、そのような事は絶対にしないというが私の哲学になってきています。いつも平和で、雰囲気がいい状態を築いていく事が、私の役割であると思っているのです。