2014年10月16日(八段語録2194)
親の責任
親を観察すると、自分の子供を見ると、「勉強しなさい」と言います。さて、自分の子供が、勉強しなさいと言われて、親の言うとおり勉強するという事にはならないように思います。親のような人生を生きたくないと言われたら、それこそ親は良い思いがしません。そのような意味では、体を張って、修練するような極真空手こそ、心技体を備えた人格として、孝行の道理を歩むようになるのかもしれません。子供は親が歩むのを参考にしながら人生を歩むものです。私の場合、息子は親を見て極真空手道を極めようとしている人だと思っているようです。
そのような意味では、道場生を大切にして、苦労してきた親父であると思っているはずです。それだけに、息子は親を尊敬し、親がいるからこそ、自分に磨きをかけなければならないと思うことができる基盤を築いて欲しいのです。息子は、親父が過去、どのような苦労をして、子供を育て、困難な事情が多くても、子供を不幸にする親とは思っていないようです。良き息子として、孝行できる道へと転換できるように、鍵のような役割を果たしてきたのではないかと思うようになって欲しいものです。子供の為に、涙が途切れない親の背後を知っている子供は、親の前で不良やヤンキーになることなどできるはずはないのです。
ところで、極真空手は、生ぬるいのを嫌がります。熱いか冷たいか、二つのうち一方に行かなければならないのです。時には冷たさが必要です。私が、子育をしているとき、愛情を持って、自転車を与えたのに、大事せず、鍵を掛けずに、盗まれた時には、厳しく叱ったものです。そして、頬には、私の手形を付けたものでした。親としての私は、息子に対して愛情を注ぎ続けましたが、いい加減な事に対しては、無慈悲でした。それにもまして、息子に対しては、何千度の溶鉱炉のように熱い親であったと思うのです。
親の愛情の本質は、子供の為に生きることです。自らの自主的な本質を中心として、子供に与えようとするのが愛情の本質なのです。その愛は、子供に対して常に与えようとします。このように教育する人であればこそ、親の資格を持つことができるのです。そして、最後に親の責任として、一生の間、しなければならないことが三つあるのです。一つは、原則通り親としての人生を歩むことです。二つは、良い子孫を残していく事です。その次は、その子孫が世の中に立派な人材として育て、教育することです。このような三大責任が親にはあるのです。