2014年10月12日(八段語録2188)
教育の目標
教育の目標をどこに置くべきか、という事を考えているのです。真の教育とは、一体何であるのかということです。現代社会では、神仏を尊ぶ教えは、希薄になっています。もちろん、私は、漠然と神仏を追慕するのではないのです。これは、人を通じて形成されるものであると思うのです。天があり地があるとするならば、その中に人がいることによって、天は形成されると思っているのです。その形成される内容は、愛情によってということを最近が感じるのです。理由は、人には愛情が必要不可欠であるからとしか言いようがないのです。
さて、いくら神仏を尊ぶといっても、それは、神社仏閣に行って何か懇願するという事ではないのです。あくまでも、外的なものではなく、内的であり、心情が伴っていなければならないし、頼るものでもないという事です。神仏を動かす能力は、知識かと思うと、いくら仏典に通じても、そんなわけはないと思うし、権力を持ってして、動かせるかというと、それも難しい話です。もちろん、金をいくら積んだからと言って、思うような人生を歩めるとは限らないのは人の常です。天を動かすことの力を持つというが、第一の教育内容になってくるのではないかと思うのです。
第二に、教育というのは、人を動かすことができる能力を持つという事だと思うのです。その原動力になるのが、愛情であることは間違いないことです。その愛情に磨きをかけていくのが、これまた教育の役割であると思えるのです。どう見ても国が進める教育的な体制は、愛情の啓発に力が注がれているとは思えないのです。それよりも、知識・権力・金が指導権を握っているように思えるのです。それではどのようにして、それが連結されるかというならば、身分制度や、差別制度に傾くに違いないのです。それで、愛情が基本の教育制度であれば、より人間関係は緩和されるのではないかと思うのです。
第三に、国を愛するという教育が、日本では、これまた稀薄なのです。国には主権があり、国土があり、国民がいます。日本には、当然主権と民と土地があるのです。その一つの教本が家庭であると考えれば、ミクロの単位で家庭であり、マクロの単位で国家であるならば、理解が得やすいということです。家族を大切にするというところから、国を愛するというところへ、矛盾なく考えることができれば、良いのです。それで、その教育を家庭で基本教育をしなければならないと思うのです。
様々な事を考えましたが、天・人・国を愛そうとする教材は、家庭にあるのだという事を痛切に感じるのです。人は皆、そのような気持ちになるために家庭を大切にするという欲望を持っているのであと思うのです。それゆえに、教育の目標を家庭において何ら見当違いではないという事だと思うのです。その家庭を強力にサポートするのが、極真精神であると思うことに何ら疑問は無いのです。