2014年10月10日(八段語録2185)
指導の限界点
道場生に向かう指導者の指導の限界点はどこなのかという事を考えてみました。極真空手においては、生涯を通じて、さらには、指導することによって、指導者が希望を感じる事ができ、一層共に価値を感じる師弟関係が結ばれるようにするのです。そこに無限の力と無限の刺激と無限に新しい何か新たな創造が、その関係の圏内で発生するのです。こうして人生を過ぎてみると、私の人生を歩んだ結実を、道場生に継承させたいと思うようになっているのです。私が極真の神髄に触れたとしても、それは一代で終わります。道場生がいなければ、指導者にもなれないということです。さらに継承もされないのです。
さて、そう考えると、私が望んだ願いの目標の結実体がまさに、道場生であるということです。それでは、その道場生が私よりも劣ることを願うでしょうか。当たり前の気持ちとして、道場生が私よりも立派であることを願うのが自然な気持ちなのです。そして、その道場生を教育することができ、その子らがどれだけ喜んだかを知るようになった時に、何とも言えない感動を受けるのです。指導者の指導は、道場生の為に何ができるかということなのです。そうでなければ、道場の発展はありえないのです。
ところで、私が、道場生を育てて大切にする理由があります。それは、世界中の人に愛情を注ぐことを学ぶからです。道場生は世界と連結され、未来と連結されているのです。このことは、私が実感している世界なのです。今年もヨーロッパに指導に行きました。ヨーロッパの道場生は宇宙人かというならば、決してそうではないのです。日々、日本で指導してきた空手道がそのまま当てはまるのです。それも本家本元の日本から指導にくるという事で、驚異の目を持って迎えてくれるのです。結局、私の現場に道場生がいなかったならば、ヨーロッパの道場生を教育できないのです。それは、教育の材料を、日々ここの道場生に与えてもらっているということなのです。
私は、道場生に対して、どこに行っても、愛情の目を持って見つめます。特別に大会に優勝した子供だけを見つめるのではないのです。それが、私の生活の習慣になっています。道場生から道場で、挨拶を受ける時も、どこかで会うときも、十字を切って挨拶を受けるのです。私が道場生の為に生き続けている限り、不幸ではないのです。そのような法度なのだと思うのです。そして、道場生の為に苦労するならば、その苦労で道場生に、良きプレゼントを与えることができるのではないかと思うのです。そうすることによって、道場生の信頼を勝ち取ることができるのだと思うのです。そのことが、指導の限界を超えていける方法であると思っているのです。