2014年10月9日(八段語録2183)
空手道の理想

 極真空手を四十年近く実践していると、いろいろなことに気づかされます。人としては、しっかりとした幼年期、少年期、思春期、青年期と過ごしていかなければ、どこかに歪が来るのです。この歪を少なくすることは、大切なことです。例えば、最短距離を行くのに、直角に行くとするならば、90度という事になります。これが、89度でも91度でも最短距離にはなりません。人生を歩んでみると、この一度の歪が、大変な歪になるのです。若い時には苦労しなさいとか、格言はいっぱいありますが、歪みのない原点作りが、若き日々という事になるのだと思うのです。
 さて、なぜ稽古をするかというならば、歪みなく直角に突き進んでいく勇気を得るためと、成長発展には刺激が必要であるという事からなのです。稽古の刺激は、極真空手の刺激を十分に受けて、理想の型や組手を目的として歩めるからです。言い換えるならば、未来の喜びを現在圏内に引っ張ってきて、刺激を与えて推進力を補給させ、目標の場所まで生かせるのが稽古という事になるのです。そうしていくうちに、人生行路を無事通過させることができるようになるのです。空手はあくまでもスポーツとは違うのです。そこに人生観がしっかり築かれ、精いっぱいの感動と躍動を人生に与えてくれるのです。
 ところで、極真空手を実践してきて感じる事は、人と互いに調和しながらでも、自分を越えて相手の為に生きる原則を持った人物になるということなのです。そのような人物は理想的な人となりうるし、指導者になる要素を含んでいるという事になるのです。例えば、自分が空手の技の極致に至り、大会でも優勝して、自慢したとしても、自己中心主義を取るようでは、何の価値もないのです。そのような人物を極真空手は育てないのです。あくまでも、極真の稽古をする道場生は、自分の為だけに生きる人を探し出せず、人の為に生きようとする人に育った道場生を探し出すのです。ここに極真空手の理想があるのです。
 結論として、道場生のみなさんは、どれ程、極真空手の理想を生命視しているでしょうか。互いに絶対視して、そこに価値を見出そうとしなければならないのです。この稽古は誰の為にしているのかと、尋ねるならば、自分の為であると同時に人のためだと言える道場生にならなければならないのです。そして、そのことをしっかり目的化して、人格を形成しようとしなければならないという事になるのです。空手を何も知らなかった人でも、稽古をするようになれば、その運勢に巻き込まれて、素晴らしい人格を形成するような事になるのです。
過去が問題ではないのです。極真空手で、この道場の運勢に乗りながら、高い理想を目指すことが大切であるという事を肝に銘じてください。