2014年10月8日(八段語録2181)
極真空手修行の目的(3)
極真空手は押忍の精神です。師範の前に絶対に従わなければなりません。そのような意味では、師範の前では、道場生の意見は無いということです。道場生が個人的な概念がなくなることによって、はじめて、師範の意志が道場生に定着するのです。そうでなければ、理想的な道場など作ることはできないのです。これは、私の考えではなく、新しい事をしていく為の根拠の概念です。もちろん、師範に配慮がなければ、その立場は薄くなっていきますが、そのような師範に、私は育てたつもりもないのです。しっかりとした新しい伝統と新しい創造をなすことのできる能力がみなぎっている師範であるのです。
そうでなくても、師範という位置は、親のような立場です。当然、道場生の空手人生の出発点になるのです。そのようにして、生命の価値を世界の何よりも尊重できる立場を経てこそ、この団体が新しい道を行くことができるという事を心に止めておかなければならないのです。師範という位置に偉大な力が注がれているという事を、師範も肌で感じるのではないかということです。極真の指導をするという事は、自由な発想から、責任性が前提になります。もし師範が責任性なしに、個々の人が自由ばかり主張して実践するなら、どれ程の大きな混乱と破局が訪れるでしょうか。至高な理想を成し遂げるべき師範が、責任性を持つってこそ可能なものが多くあるのです。
その責任性は、次の三つとして考えることができます。第一に、師範として感謝の念を持ちながら、自己修行、自己管理で、責任を持つということです。師範の立場は、原則や世間体によって守られるのではなく、極真を思う心での自己管理、自己決断で守られるのです。
第二に、師範となれば、家庭に対する責任です。もし、離婚するようであるならば、もはやその完全性が破壊されます。人は絶対に自分の妻のために生きなければならない愛情の責任があります。第三に、子供に対する責任性です。子供の誇りと幸福の基地は、親の愛情です。親を通じて生命が誕生し、その中で養育されることを願います。もちろん、責任性は外的養育ではなく、愛情の生命的要素を提供していく事なのです。
このような、厳しい選考基準を突破して、二十年も私に仕えて、伝統を守り続けている、師範に心から尊敬の念を抱くのです。特に、師範は、盲人のように方向性を失って、愛情に狂えば、全てを失ってしまいます。整然とした結論です。今、青少年問題が深刻です。青少年期に淫乱で道を失い、フリーセックスを植えてきたので、収穫期にあるような今、その風潮を正すような指導ができなければ、極真空手は世俗化していってしまいます。極真空手は、人間として正しい道を示すのです。そのモデルが師範でなければならないのは当然のことです。もちろん、空手の技において、極めるのは当たり前です。