2014年10月6日(八段語録2178)
思春期に対する親の心構え(2)
自然現象は、動けば動くほど、作用すれば、作用するほど、小さくなっていきます。しかし、この道場に通う道場生は、動けば動くほど、作用すれば、作用するほど、大きな道場生として成長するのです。力学世界とは全く違っているのです。子供が道場に通って、稽古をしてみると、そこに、大きくなる成長する為の糧があるのです。その糧とは、道場生を思春期に、目が飛び出るほど見たいと思い、鼻が詰まるほど、においを嗅ぎたいと思い、鼓膜が破れるほど聞きたいと思い、手がこわばるほど触りたいという欲求を起こさせる、魔法の作用なのです。
ところで、二つの目は、焦点が合わなければならず、鼻もそうです。耳を焦点が合ってこそ聞こえます。三半規管で均等があってこそ、バランスが取れます。すべて,焦点上において生きているのが人間ということもできます。その統合的な焦点、つまり、目の焦点、耳の焦点、鼻の焦点、口の焦点、触覚の焦点、そのすべての焦点の原点を作っていくのが、これまた稽古で形成されると言っていいのです。稽古の目的は、その道場生を成長させて、成熟させることです。そして、個性の花を咲かせ、火山を噴火するように爆発させようとするのです。天地が振動するときに、個性はしっかり根付くのです。
さて、理想的な道場生とは、いったいどのような道場生かというならば、必ずしも強さだけを、追い求めていく道場生ではないのです。最高の自分の個性を発揮させることができるような、自分の創造であり、それがまさに最高の芸術作品のようなものなのです。稽古をしていること自体、その姿は、最高の文学作品であり、それ自体が芸術であるのです。もちろん、仲間は大切です。うれしい時、一緒に喜ぶことができ、困難な時に力になってあげられる関係、一人は右足、一人は左足、一人は右手、一人は左手になって、道場を舞台として広げていく生活が、道場で修行している姿であるのです。
とにかく、人生の最高の時を迎えるための準備を思春期にはするのです。自分一人で生きているという孤独な生き方を捨てて、互いに励ますことができ、うれしい時に一緒に喜ぶことができる関係を作っていくのです。当然、空手の修行ですから、苦しく困難な時もあると思います。それでも、生活の舞台を広げていく事です。こうして、道場での訓練は、親が願う子供になり、安息できる家庭を作っていくということなのです。道場の修行の目的は、自己完成と指導者になって、権限を持って管理できるようになるためなのです。自己完成をしていくならば、世の中に対して、所有権が生まれてくるのです。こんな事を考えて、思春期を過ごすようにしてもらいたいと思いながら、書き続けました。