2014年9月16日(八段語録2118)

責任心情


 私として、極真の道は、いずれにせよ行かなければならないのです。そして、極真の修行にはあいまいさはないのです。今となっては死んでもいかなければならないいようになっています。この道に責任を持つという事は,責任の限界線が絶えずあり、多くの困難な事もあることも覚悟しなければならないのです。そしてそれは、道場生と共に歩むという所から生じてくるのです。多くの道場生が途中で空手道を捨ててしまうことがあるのですが、せっかく学んだ極真精神まで捨ててしまわないようにしたいものです。それだから、極真の道を行くという人は、修行の過程を崩さないようにしたいものです。
 さて、極真空手の修行をするという事は、自動的に修行はできないのです。あくまでも、責任を果たさなければならないという事になります。その修行を通じて成熟し、極真の目指す偉業を完成するという課題を完成しなければならないのです。特に、私の道場は、青少年が多いのです。精神的にも肉体的にも成熟して、花を咲かせるような時期に入ろうとするときです。この道場での修行の中心はあくまでも私という事になります。それだから、修行の完成は、私と道場生の共同参加という事の言えるわけです。私と道場生が相対の位置で一つになっていくとするならば、段階的に高位のレベルになっていけるということです。
 ところで、昨日・一昨日と千葉の大会に参加してまいりました。軽自動車で高速を走ってきたのですが、さすがに疲れました。今回は、大会に積極的に参加しようとして、決勝戦の主審をしてきました。最後のステージでの采配ですから、ちょっと気を使う所があったのですが、選手時代の延長のような主審となりました。それでも、大会に積極的に参加したという自覚が促されました。今までは、遠慮していたところが多かったのですが、何でもステージに立とうと自らを奮い立たせようとしたわけです。
 結論として、千葉の道場にも良かったし、私としても責任を果たせたという気持ちで、心は、高まりました。それだけに、更なる跳躍をしていかなければならないと思えたのです。帰りも車という事で、休み休み、ゆっくり帰ってきたのでした。帰宅寸前には、朝日が、昇ってきれいでした。会長も、私が主審をやるという事は、思わなかったようで、驚きと心配の二つが交差しているようでした。帰ってからは、ちょっと忙しく、交通指導隊のボランティアや、娘と空手の練習、さらにチラシの配布と忙しくしたので、夕方には、ダウンしていました。充実した責任を果たせたような一日でした。