2014年9月15日(八段語録2117)

革命空手


 極真の道は理解できる道です。はっきりしているのです。鍛錬を重ねることによって到達するということが、誰にでもわかるようになっている運命の道なのです。これから願われる、重大な基準は、道場生が立てなければならないのです。それゆえ、道場生には責任があるということです。その責任については、私はどうすることもできないのです。道場生の責任という事は、武士道という思想的根拠によって出てくるのです。それは、私が助けてあげるという事ではないのです。修行者としての道は、最終的に自らの責任で開拓しなければならないということです。それをしっかりと心に止めておかなければならないのです。
 さて、今まで、空手といえば、伝統空手でした。実際に当てることをしないので、勝負の判定は難しいものでした。そこで、革命的に実践空手を提唱したお方が、大山総裁という事です。その責任を引き継いでいくのが私であり、道場生であるというのです。この実践空手は、今でこそ当たり前のようになっているのですが、この事実は、その辺の発明とは全く異なって、コペルニクス的な発想という事だと思っているのです。そのことをはっきり認識して、私は修行時代、この極真空手に対しての誇りを誰よりも抱いていました。ご飯を食べる時にも、箸を握る時にも、さらに皿を洗うときにも、歩きながらも、トイレに行っても、このことに対する高い意識を抱いたものです。
 ところで、空手界を揺るがす、実践空手、武道空手に対して誇りは、伝統空手に対する警鐘であります。空手界の中心としての一つの、共同目的である新たな革命の偉業を完成させるという事を、願いながらいかなければならなかったという事になるのです。このような偉業の上に立脚しているのが道場生であることに間違いないのです。そこで、無責任な道場生であってはいけないと、強く言うのです。それは、極真空手は背景が違うのです。そのことを重々理解して取り組んでもらいたいというのが今日のメッセージです。
 結論として、私もですが、道場生のみなさん、全員が、極真の神髄に触れながら、この伝統の先頭に立って欲しいのです。そして、もちろん、チャンピオンとして君臨してほしいし、生涯をかけて、極めて行ってほしいのです。それが、道場生の責任であり、過去を振り返ったならば、決して後悔することのない、武道人生であったと胸を張って言えることができれば、私も指導のしがいがあるというものです。