2014年9月13日(八段語録2115)

万物の霊長


 人間は万物の霊長であるとよく聞きますが、霊長という言葉は、中心に立って、全体に価値を評価するという事であれば、表現できる言葉であると思うのです。人が優れようが、そうでなかろうが、人は中心になろうとする欲望があります。ある意味で、無限の価値を持った人間になりたいと思うのです。あることを思いつけば、無限の価値を持った中心になりたいと思い、より優れた価値と関係を結びたいと思うのが人の心であるのです。そして、天地の環境の代表になれるというのです。単に、猿の世界や、虎の世界という事ではないのです。
 それでは何が違うかという事をちょっと検討すると、猿はただ食べて寝て、子を産むのが第一の目的です。人間とは種が違うのです。人は自分を中心とするのではなく、他の人を中心として、より大きなものを中心として、願いを持ちながら生きるようになっているのであり、自分より低いものを願いながら生きるようにはなっていないのです。次元が違うのです。人間は限りなく宇宙を思いながら生きたいということです。それは、決して、猿にはできない事であり、人間の特権であり、大いなる価値を秘めているといって過言ではないのです。
 ところで、私の人生はどうであったかと振り返ると、理想や希望は、天地を代表するぐらい、大きかったのです。目標は、弁護士になろうか、公認会計士になろうか、様々頭を目ぐらいして、勉強した思いがありました。そして、思いもよらぬ、極真空手への道を突き進むようになったのでした。それでも、この極真で、選手として教育者として、どのように推し進めていこうかと彷徨いながら、今の自分があるのです。それが、大いなる夢を抱き続けた私の青春であったのだと思っているのです。
 それにしても、万物の霊長としての、人間の生き様をするように心がけようとしなければ、ただの肉食人間になり下がってしまうだけなのです。そして、大いなる調和の中心となるならば、ある程度の中心として人生を決定することができるのではないかと思うのです。せめて、道場生が拍子を合わせてくれようとするならば、ちょうど指揮官を中心に上下関係がよく連結されていなければならないようになるのと同じです。そのような意味では、私が留まるところは、宇宙が留まるところのようでありたいと、さらに思うようになっているのです。なぜならば、人は大宇宙の縮小体というではありませんか。作用の源泉、力の源泉になれる中心的位置は備えているはずだと思うのです。そして、無限の曲折を経て、今の自分があるとするならば、あらゆるものが投影された実体が自分であるというのです。