2014年9月13日(八段語録2114)
指導者へ
修行をしっかりすると、極真と一つになる道、稽古をする道場生と極真空手の中心レベルが一点に集まる道、そして道場生が極真を代表する道、この三つ一致して、太陽と地球のように、自転と公転運動を繰り返さなければ、修行が深まり、広がる道はないのです。ちょうど、細胞には核があります。核を中心として細胞は成立しているのです。極真の道場生において、このことを意識して、修行の完成を目指して、収拾しなければならないというのが、私の考えです。このような原則の影響は全ての分野にかかっているのです。それゆえ、こうして師範が存在するという事で、実現できてなかった場合には、師範の指導を受ければ良いわけです。そうすることによって、道が切り開けるはずです。そのために師範がいるわけです。
ところで、極真の道は容易ではないのです。一度いやになれば、一歩も歩めないほど、癌のように道場生は、蝕まれていくのです。絶えず、極真の道は、他と自分からの攻撃があることを予想して、自戒して警告しなければならないのです。極真の道を離れてしまうような道場生は、今も昔もいました。やめていく道場生を見て「お前だけはそうしないだろう」と信じたかったのです。極真の道をどのように判断しても、誰もが干渉することができない責任というものがあるのです。それが特権的な権限という事にもなるのです。菅野師範を初め、多くの先輩は、このような道を責任心情で超えてきたのです。だから今があるのです。
さて、道場生が、この厳しい極真空手ですが、このような基準を越えて前進できないがために、本当の極真空手の醍醐味を味わっていないのです。それでは、先ほどから、書いている、極真での責任とは何でしょうか。それは、第一に、初心で稽古をすることであり、第二に、道場生同士尊敬することであり、第三に、指導ができるようになることであり、第四に、師範になることなのです。これが、紛れもなく道場生の責任分担なのです。また、このことは、私を見習わなければ、できない事でもあるのです。
このような極真の道を行きなさいと命令するのは、あくまでも極真の理想を完成させるためであり、道場生が、この道を行くのは、難しいことです。歩んでみて初めて分かる境地なのです。そして、稽古の経験を積んで、初めて極真の道が開かれ、太陽と地球のように、公転と自転運動を繰り広げられて、美しく理想を求めていく事ができるようになるのです。この努力なくしては、極真の神髄を顕現させることはできないのです。それは、道場生が自ら成熟期を迎えて花を咲かせ、香りを漂わせるようになったら、その人は、「押しも押されぬ」師範ということです。