2014年9月11日(八段語録2112)
父親として
理想から人生を創造していかなければ、自分の納得のいく人生は歩めないのです。人生を理想的に歩むという事は、素晴らしい人生になるという希望を意味するのです。自分の人生の第一の目的は、私は、肉体を維持するということと考えています。そして、肉体をまとって現れているその姿は、誰の姿かというならば、私自身の姿であるという事です。そして、できるだけ刺激を受けて、喜びを享受できるならば、幸せとい事です。もちろん、一人では、喜べないことが多いのです。それゆえに、肉体をまとった私が、誰かに愛情を抱くのは、愛を成立させるためである思うのです。
さて、私が希望そのものであるという事を悟るのは、なかなか難しい事でした。親父やお袋の希望を抱いている気持ちを、息子の私に植えつけたいという事は、理解することができる年齢になってきました。それゆえに、親となった今にして、息子が両親の希望そのものであったという事を悟るのです。悟った時には、親父は他界していたという現実を目の当たりにさせられてしまいました。そして、息子に愛情を注ぎたいという一身で、両親が人生を送ってきたという事を悟ってきたのは、今日この頃なのです。
ところで、子供を持って感じる事は、特別な気持ちで、人生を歩んできたのだと感じさせられるのです。その気持ちとは、自分の愛情の具現であり、いくら自分がしっかりしていても、子供がいなければ決して愛の喜びを感じる事はできなかったのです。幼いながらも、子供は自発的な愛情を返してくれたのです。それだけに、良き父を演出してきたのであり、教育者でありたいと願い、努力して戦ってきたわけです。ですから、生まれてきたのも、良き姿を現すために生まれてきたのであり、生きるのもかっこよく、死ぬるのもみっともなく死にたくないと思うのです。これを単純に人生の目的であると考えるは、私ばかりでしょうか。
結論として、この環境の中で、不便や不足のない環境を所有することです。それは、いくらうれしい日があるとしても、自分がこの地に生まれた日、自分の妻と結婚した日、そして子供が生まれた日、このような日を持った自分は幸せ者であって、不幸な人生を送っていると思っていないのです。そのような事を考えながら、雨の一日を過ごしています。何か良い事をと思いながら、一日を一生懸命に歩もうとするのです。そして、元気に終わりたいと思っているのです。