2014年9月9日(八段語録2110)

心身の鍛錬


 極真空手は、自らの体を鍛えていく道場です。鎧のような肉体を作っていけなければ、戦うことさえ困難になります。ある意味で、肉欲を制御し、肉体を精神に屈服させる、強靭なまで自分を鍛え上げる道場なのです。さらに、極真空手は、本来の人間へと引っ張っていく道場でもあるのです。しかし、武道精神なくして、自らの肉体を屈服させることはできないのです。ただ、武士道という精神に従って、主体の精神は対象の肉体を従わせ、極真の理想を成し遂げようとするのです。これが、極真魂を語る師範としての主張なのです。
 極真の修行は人間の貴重な価値を満点にすることに他ならないのです。精神と肉体の調和は、精神と肉体が共鳴圏に立っていることを意味します。音叉の振動数が同じである時、一つを叩けば、その反対の音叉が響きます。それと同じように、武道精神によって、精神を叩けば、肉体に響きます。また逆に肉体を叩けば、精神が共鳴するように作られているのです。そこに理論はありません。その真ん中に入っていけば、理念の全てを感じる事ができるようになっているのです。
 しかし、現実は、肉体と精神が戦っています。それは、今日、この時代に始まったことではないのです。太古の昔から、今に至るまで、この課題は続いているのです。精神も重要であるし、肉体も重要なのです。それゆえに、理想的ビジョンを追求することはもちろんのこと、私自身がそれを受けて消化し、和合できる自分を発見しなければならないのです。精神と肉体が調和しない指導者がいるとするならば、指導をし、理想を与えるという事は、恥ずかしい事なのです。まして、極真の精神に反することです。それだから、精神と肉体は武士道を抱き、そのまま感応しながら生きるようになっているのです。つまり精神は武道精神に感応し、肉体は自動的に精神に共鳴するようになっているのです。
 このような内容を意識して、私は外的な事から始めたのです。結局、精神と肉体の調和の為という事になりました。それは、酒を飲まず、タバコを吸わずという事でした。もちろん、十代で極真に出会ったので、それらの嗜好品はたしなんでいなかったのですが、それでも誘惑が多かったので、それでも断ち切る戦いをしたものです。さらに、性的に欲望を克服しようとした意味合いを、「理想の伴侶を迎える」という気持ちを抱き続けてきたということなのです。それまでに、自分の貞操を守り抜き、初愛を妻となった人に捧げるという事でした。それも、肉体と精神の調和を図ろうとするところに生じた自分の修行でした。それが、今となって極真精神を伝えるうえで役立っているのです。
 結局、家庭を持ったのが三十四歳の時でした。それほどまでに、自己との戦いをし続けたのです。まさに、修行僧のような独身時代であったのでした。それが、原点になって今があるという事になるのです。今考えても、自分を追いつめた戦いであったことは、間違いないことです。それゆえ、極真空手の指導の資格があると思ってもいるのです。