2014年9月8日(八段語録2109)

心が師


 ある人を見れば、その人がどんな人かということを心は直ちに分かるのです。それもすぐに直観的にわかるのです。そのような意味では、自分の師は自分の心であると確信もできるのです。それゆえ、その心を苦しめず、悲しませてはいけないということです。どう考えてみても、心は私の生涯の友であり主人です。そのような意味では心が喜べる道を選択して、初めて、生きがいを持って生きることができるのです。極真を極めようとするならば、絶対に心の為に生きる体にならければならないと思うのです。また言うのですが、心は永遠に「私」と共に一つで生き続けるのです。
 さて、極真の道を求めるならば、心が間違ったことをするならば、どんな時であっても、良心が呵責を受けるのです。それは、死んでいたかのような心の師が生き返り、心が願う通りにせざるを得なくなるのです。そのような意味では、人の為に生きようとする前に、自己管理を完成すべきであると思うのです。極真の道を歩んだ、先輩たちも、この点に関しては、不十分だったのです。私も実際のところ、身もだえしながら、稽古をしてきたのです。極真を極めたとしても、野獣にはならないという自分のプライドがあったのです。
 ところで、私は、自分の中に最も貴重である心の師を、一生涯の間、持ち続けているのです。それにもかかわらず、この心の師を踏みつけて濫用するのです。私の心の師は常に、私自身に助けになるように話しかけ、私を擁護しようとします。そして、私が非利己的な人間になるように促し、善人になれるように促すのです。しかし、何度もいうようですが、私は心の声にいつも逆らっていく反乱者が内在しているのです。その反乱者とは、まさに肉体であるということです。
 結論として、心の革命をするところが、極真の道であるというのです。心の声に絶対に服従するように訓練するのです。私には、いまだ善を志向する心の命令と、肉体の欲望を求める誘惑が、絶え間ない葛藤を続けているのです。そのような恥ずかしい内部の葛藤を収束させるためには、心の位置と、どのように作用しているかを確実に知らなければならないということです。何を隠そう心は、私の一挙手一投足、さらに私の考えまでも、一点一画の加減もなく把握しているのです。そのような心の命令に逆らえば、呵責を受けるのです。私の心に誇りがたまり、垢が付き、傷ができるのです。そうであるから、革命的次元に立って、自分の肉体を抑制し、心の案内を受けて、傷のない、済んだ、きれいな心を保つべきなのです。