2014年9月3日(八段語録2102)

理想に向かって


 現実的な夢の実現へ向けて、どのような戦いをすることができるのかという事を真剣に検討するのです。人の生命は、理想を中心として宿ったものだと思っているので、私の本質は、理想を追求し続けるという事になります。ですから、理想を追求するという事は、社会に役立つことであり、「為に生きる」という事を本質にしなければならないというのが、天理原則であると思うようになっています。したがって、いろいろとあるでしょうが、理想に生きるために生まれた存在であると言うことができると思うのです。理想がなければ、心身が共鳴しないのです。私の場合、不完全燃焼してしまいます。言い換えれば、心は理想と共鳴し、体は自動的に心に共鳴するようになっているのです。体と心が矛盾しない状態にあるという事は、理想を追求してそのまま引き継いで体感するところにあると感じるのです。
 さて、理想は、未来に現れるのではなく、今の私の前に現れなければならないと思っています。現実に私の理想は、妻の前に現れなければ意味をなさず、妻の理想は、私の目の前に現れなければならないと思えるのです。それが、理想の公約であり、理想の行くべき方向であろうと思うのです。その道に従わなければ、理想を成し遂げることなど不可能と考えるのです。そのような意味で、いつも自分に言い聞かせていることは、理想を追求する資格者に成りうるということができるかという自己問答です。そして、資格者として確立して、さらに克服すべき、全ての過程が険しければ険しいほど、難しければ難しいほど、約束した理想は、より次元の高い価値を持つようになると思うのです。
 ところで、理想を持つという事は、ひたすら努力することということです。嫌いながら努力するのではなく心から喜びながら努力するようになっています。ここには苦痛は無いのです。当然何かを犠牲にしなければならないのですが、その犠牲は不幸な犠牲ではなく、甘くて奇妙な味がするのです。そして、ワクワクしながら、右の手がすることを左の手が知らないように、こっそり努力するのです。私としては、理想を果たす場合、能力があって理想を果たせるとは思っていないのです。知恵があるからといって向かっていけるとは思わないのです。努力してこそ、残ることができ、理想に向かえるのだと実感しているのです。
 こうして、極真の理想を掲げて歩んできましたが、それは、多くの道場生に利用されるために行く理想なのです。もちろん、もっと大きな所に向かって利用されようと思っているのです。このようにして、理想を求め、追求していくことが、これからも続くのであり、私の生きがいという事になるのです。それにしても、難しい人生のコントロールに、理想という旗を立てながら推し進めていける幸いに感謝する次第でした。