2014年9月2日(八段語録2101)

苦労が報われる指導者


 極真の道を全うするという事は、誰かが縁の下の力持ちにならなければならないのです。犠牲になり、奉仕する人が現れなければ、道は開かないのです。動機の悪い人が多くいると、行くことができないのです。私は、このような実情を感じていたので、チラシを配り、指導においても最前線で歩み続けてきたのです。もちろん、チラシ配布では多くの辱めを受けたりしました。それでも死ぬことはないと、決意して臨んだ日々であったと思うのです。この道場で、極真宮城県本部の為に、犠牲と努力の度数が、私よりも高い人がいるならば、その人が新たなる後継者であることは間違いないことです。
 さて、道場の為に犠牲となるところに、信頼の道があります。自分の代価を計算することなく、苦労すればするほど、そしてその苦労が極まれば極まるほど、道場生の信頼の基となるのです。当たり前に、その代価を要求しなくても、道場生が認めるところとなるならば、それに越したことはないのです。ですから、道場の為に、より骨を折れば折るほど、その価値が減少するのではなく、倍加するのです。それが道場の発展につながるという事になるのです。だから、指導者が苦労するのは、道場生の心を占領するためです。ですから、苦労の所在地が自分ではなく、道場生のあることを責任者は理解すべきです。
 ところで、良き指導者とは、必ず中心的立場に立ちます。所在地には、指導者自体があるのではなく、道場生がつながってくるようになるのです。そうしてこそ、指導者の目的が達成されるというものです。聖書を紐解くことなく「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして・・・・」という精神が指導者には必要になってきます。これが、最も重要な法律であると思うのです。自分の息子についても考えると、成長して、茂奈ちゃんに出会い、夫婦となって、父母のもとを去るようになっても、父母との愛情が更に深まり、また子供を産むことによって、さらに大きな愛情に深まっていくものだと思えてならないのです。
 今日は根白石の農地に出かけてきました。大根と白菜を植える時期になってきました。ジャガイモを植えて、収穫が終わった畑は、草が生えて、土壌も荒れていました。耕運機で、土を柔らかくし、肥料と尿素を巻きながら、その土台の上に、種をまくのです。午前中から汗をかきながら、夕暮れ時には、何とか終わることができました。自然との対話をしっかりして、大地からパワーをもらって、意気揚々と帰ってきました。農作業は、自然と一つになれて楽しいものです。それだけに、苦労をして、汗をかいた分だけ、収穫が楽しみになります。ちょうど、苦労が報われる指導者のようなものだと思いました。