2014年8月31日(八段語録2099)

極真である理由


 なぜ、極真空手でなくてはならないのでしょうか。極真空手でなければ、寸止め空手を超越することができないからなのです。寸止め空手には、極真空手は介在することができません。寸止め空手は、実践には向いていないのです。それで、そこには同伴することはできないのです。あくまでも、実践を前提にして、極真空手と共に経綸するようになっているのです。そして、極真空手は、実践法を学ぶのです。そこには、あらゆる手段があります。この一つ一つを学ぶ中に、一つ一つをクリアして、本物の強さを身に着けようとするのです。
 これが極真空手の偉大なところなのです。実践を前提に天理を求め、強くなろうとするならば、この極真空手を学ばなければならないという事になるのです。私自身、この修行を四十年以上続けてきました。そして、昇級し、段位を頂いて、極真空手に生涯をささげてきたという事になります。極真を抱えて、この道を歩んだという事実は、取り消すこともできなければ、書き直すこともできないということです。そして、極真空手のあるべき目的に向かって、全ての重荷を背負っていく人生を選択して歩んできたのです。
 ところで、極真の道は、絶えず自分との戦いです。自分との戦いに勝てない人は、極真空手を修行する資格はないのです。勝とうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。絶えず自分が問題だということです。だから、自分以上の事をしなければ解決にならないのです。例えば、極真空手においても、多くの青年たちが入門してきました。そして、それなりに修行して、それで終わっている人が多かったのです。私のように、四十数年も継続してきた人など、奇跡のような人という事になっているのです。ですから、基本的には、継続年数でも私以上の年数を空手道に打ち込みなさいというのが私の願いであり、自分との戦いに勝利できる道であるという事になるのです。
 さらに、継続という観点だけの話ではなく、別の観点で話すならば、極真の本質と和合できる内容を備えなければならないということです。そうでなければ、極真で生きる道は無くなります。つまり、「エデンの東」のストーリーとなってしまいます。カインの末裔ということです。実力がありながら、後継者であると期待されながら、自分から失ってしまうという事になります。それだから、特に指導者になるとするならば、自分の立場を主張する者ではないのです。他の指導者を尊敬して、その立場を強調するのです。自分だけを主張していけば、いずれ弾かれてしまうということです。
 結果、いくら、自分としては、実力があり、個人として強かろうとも、「私」一人が孤独になれば、いずれ極真組織から疎外されてしまいます。道場生や他の指導者から、公認を受けなければならないのです。他の指導者から、その人の価値が公認されない指導者が、指導者として残るかというならば、それは矛盾というものです。誰からも尊敬されるような人材として、残る努力が必要であるということです。つまり、極真の道は、貞淑な道であり、静かな道ということにもなるのです。そして慎重な道なのです。