2014年8月29日(八段語録2097)

反省の道


 極真の道は、稽古を継続していく道であり、心構えが悪ければ行くことができない道であるのです。当然、普通の人が好まない道なのかもしれないのです。そして、鍛えることを通じて心の世界が何であるというか、極真とは何であるかという事を真剣に追及して、苦難の道を歩むのです。これが、道場生がいかなければならない道であることは間違いないのです。そして、昇段をすることを意識するようになり、希望としては、強くなることに意識をし、大会で勝利を得るための戦いをするのです。しかし、現実は、敗北の道、失望の過程を通過せざるを得ないのです。道場生が、極真の道を稽古で、通過せざるを得ない、このような路程を、自らの責任であると考え、感謝する生活、極真と共にある人生という事を意識するところに、栄光の光が見えてくるのです。
 さて、このように道場生として極真を貫くという事は、反省の道です。たえず反省を求めなければならないのです。反省のない道場生が、大会で勝利するという事はあり得ず、極真の道を全うするという事などあり得ない話しなのです。反省はどこで探すのでしょうか。人との関係の中で探すのです。人を通じて探すので、当然指導者である師範の忠告なり指示が必要になってきます。そして、道場生同士の関係の中から切磋琢磨することでも、反省することを学びます。
 ところで、反省は、全ての精誠を尽くすところに生まれます。指導者の願いを受けて、極真の道理を果たさなければならないのです。もし精誠を尽くせない、いい加減な気持ちでいるとしたならば、「私」を悔しく思い、怒りを感じながら稽古をしなければならないのです。そして、怠け者の「私」を新しくしなければならないのです。どんな苦しい修行の道があったとしても、真の「私」の姿を整えて黙々と歩んでいくことが必要であり、そのことが道場生の行くべき道なのです。
 最終的に、心身が分裂するのではなく、また心と体の二つの分かれた道を行くのではなく、精神修行によって、心が体を管理することができる自制力を持って、極真の道を行かなければならないのです。羅針盤は南北に向かう方向を決して失わないのです。ネズミも台風に遭遇して破損する船をあらかじめ知り、綱を渡って陸地に降りる知覚を持っているのです。それなのに、極真を学ぶ道場生が、行くべき方向性を失っていいのでしょうか。目的を知りながら、悲惨な歩みをしてはいけないということです。