2014年8月9日(八段語録2086)

道場生に対する願い


 この極真会館宮城県本部も浮世の苦しみに悩まされながら、悲喜が交差する峠を超える団体としての歩みをしてきました。この二十年間、開拓の歩みをしてきましたが、道場生の教育を目的として生まれ、教育を中心に育て、次にもう一度次元を上げて連結されなければならない時に突入しました。それは、私を離れて、自立して新しい指導者を立てていくということなのです。私の時代がホップの段階であるとするならば、新しい指導者を立てていくという事は、ステップの時に至ってきているということなのです。そして、その段階を過ぎたならば、ジャンプという事で、息子が後継者になるとするならば、理想的な形になると思うのですが、そのように行くかというならば、絵にかいたようには行かないのが現実であると思うのです。
 このような過程を通過して、運営されているという事は、理想的な道であると思うのですが、そのような道を通るという事は、道場だけの目的ではなく、理想の人材を育成するための最良の方法であると思うのです。さて、道場を優先するという事ではなく、あくまでも人材を育成するということが目標でなければならないことは言うまでもありません。ですから人材を育成するために全力を尽くすことに力を注ぐのです。そのような大義の為に生きていき、その中で教育することができ、その中で死んでいけるという事は、それが、極真会館宮城県本部の目的であるというのです。
 ところで、人を育てるという事は、少年期の時だけの話ではなく、生涯を通じてという事に相違はないのです。小説や詩のような文学作品を見ても、変わらない愛とか、永遠の愛がというのが、テーマになったりします。このような作品を見るにつけ、私達の、子供の時だけの教育、あるいは瞬間的な時の教育、限られた時間内の教育を願うのではなく、一生涯を通じての教育を徹底すべきであると思うのです。教育するという事は、威厳を持ったような人に育てるということなのです。そのような道場生が誕生するという事は、その人材を育てたという深い感動を指導した人に感じさせるのです。
 今思う率直な私の感想は、道場生を見るたびに、どのように成長していくかという事を見続けたいのです。さらに、鼻においても嗅ぐためにあるのですが、成長のにおいを嗅ぐためにあると思っているし、耳も悪いことは聞き流し、良いことだけを聞いていくとするならば、いつ聞いても嫌気がしない言葉として耳に残るのです。そのような眺めは、とても気持ちがいいものです。道場生は、素朴な源流のようなものです。山奥に流れる小さな水の流れが、大洋に流れ入って黒潮と共に、世界を生かすような水になって欲しいと願うばかりです。