2014年8月8日(八段語録2085)

道場の独自性


 極真会館宮城県本部という所は、この地域に一つしかありません。そこに道場生が、厳然として所属する道場があるという事を誇りに思うべきです。絶対に一つしかないのです。そして、道場生が極真空手の舞台を求めていくときには、この道場で指導を受けるのです。そのあとは、師範の指導であり、指導員の修練であり、いつしか、一人前の武道家としての人格者になるのです。その指導の仕方は様々あるのです。見せて指導する、あるいは説明しながら指導する等、指導者の個性によって大分違うのです。どの指導者も、誰もその基準は満点です。指導者が、不足と感じれば感じるほど、さらに完全だということです。
 ところで、稽古といっても、これは漠然として言葉のように思えます。稽古を言葉で理解できません。どれ程稽古を説明しても、稽古をしたことのない人には理解できない境地です。稽古という体験を持てない人には、到底理解できない境地なのです。この稽古の刺激は、経験した道場生には必要です。稽古の刺激で充実感を感じるのです。ちょうど、いつも食べているご飯も、お腹がすいていてこそ食べるたびに新たな味がするのです。稽古も常に刺激を通じて新しくするようになるのです。そのために、稽古内容を研究し充実させるのです。稽古も漠然とするのではなく、刺激を受けるためにも、目標を持ち研究しなければならないのです。
 さて、極真空手は、経験を通じて得るものであり、体験を重ねて分かるようになるのです。当然、言葉や文字、あるいは一般的な教育を通じて体得できるものではありません。道場での稽古を通じてのみ、完全に体得できるのです。道場でも、一年、二年と、段階的稽古を通じて経験し、より完成の領域に達するようになるのです。そうすることによって、目指した理想と一致するようになるのです。そして、稽古を継続するならば、その道場生は稽古の実であり、結実と原因は、遠く離れたとことから出発していないのです。その意味は、稽古の結実が、そこに登場した「私」だということなのです。
 このような、この地域に一つしかない極真空手ですから、ここで学ぶことは大きいのです。この道場に極真精神が介在しており、伝統を受け継いだ生命そのものなのです。ですから、指導者も、道場生もフラフラすることなく、そこから成長の芽をだし、極真を代表する意欲に充足させる人にならなければならないということです。そのようなことを強調しながら、今日の話は終わります。