2014年8月7日(八段語録2084)

伝統の器


 道場と道場生は、一つにならなければなりません。それは、お互いが成長することを意味するのです。道場は道場生の稽古によってよりよくなり、道場生は道場の伝統によって成長するのです。本当に信頼できなければ、お互いの成長はあり得ないのです。お互いが調和することによって、生命が活性化されるのです。一つになるとするならば、そこに本当にすべき立場があるのです。道場の伝統と道場生の稽古が一つの伝統の器の中で一つになる位置が宮城県本部の理想となることができるのです。
 このような伝統の器は、道場よりも尊いし、道場生よりも尊いのです。その伝統の器がなければ、道場も無価値なものとなるし、道場生も何でもないことになるのです。そのように尊いので、宝の中の宝として、世の中の誰にも見えないように一生の間、カギをかけているのです。そのカギは道場生のものは、道場が持ち、道場のものは道場生が持つのです。道場の先輩たちもそれを中心として生き、今の道場生も生きているのです。ところが、伝統の器は、悪いものにもなる可能もあるし、下品なものにもなるのです。なぜでしょうか。連結されるものが悪くなってしまうからです。それだから、道場の本来の伝統の器を汚さないようにするのが私達の役割という事になるのです。
 ところで、私達は極真空手という伝統の上に立っています。それは、投入された魂から成り立っているのです。限りなく与えられて、この極真会館が始まったといえるのです。伝統の力は、このような法度と内容の原則に従って動くにも関わらず、受けようとするだけでは、天地に逆らい、背くようになるのです。この原則は、お互いに相乗効果をもたらすことによって、保護されていくようになるのです。それが、衝突するようになると、追放されるようになるのです。そうなれば、新しいものが補充されないのです。ですから、均衡力を保つことによって、相対的立場から保護を受けますが、一方通行になると原則の力が押し出すので、その痛みに耐えられないようになるので騒ぐのです。
 結論として、広大無辺な自然の力に任せて、道場と道場生は共同目的体なので、道場の伝統の器を持っているのです。同時に、一つとなって存在を保護育成で来る一方で、一つになれなければ、存在を排斥するような作用になるのです。そのために、伝統の器は永続性が可能になるのです。道場生の心身についてのみ考えても、一致すれば、自然の保護をうけるのであり、喜びも感じるようになるのですが、そうでなければ、苦痛を感じて反発するようになるのです。病気からくる苦痛もそのようなものです。自然の保護力を喪失するような行動はすべきではないと宣言するのです。