2014年8月6日(八段語録2083)

道場の倫理観


 現代の社会の風潮は、自分を主として「私が良い暮らしをすればいい」という風な利己主義に流れています。それは単純に良いように思うのですが、結果的にマイナスになってしまいます。それは、愛のもつれに現れます。さて、私の家庭を例にとるならば、私が出かけて帰ってくるときには、外であったすべての事を妻とともに話し合い、新しく開拓できる要因を発見するように努力するのです。お互いが力を合わせて、研究しようとする家庭が、よりよい家庭になるはずなのです。私達がそのようであるならば、息子夫婦達も、これにさらに力を加えて、父母以上の家庭を作りたいと同調するようになるはずなのです。
 夫婦単位で考えるならば、個人主義は孤立を意味します。しかしながら、個人主義から利他主義へと考えを変えるならば、夫婦そろって、互いに尽くしあうところに、花が咲くように鮮やかになります。そして妻に対しては、最高の存在としての意識を持つのです。そうすることによって、妻が素晴らしい可憐な花として現れるのです。天地に光輝く太陽が浮かび上がるような人生を味合わなければ何の意味もないのです。それが、妻とともに生きる意味であり、夫婦で生きるという事になるのです。
 ところで、利他主義でなければ、愛情という表現は無意味になってしまいます。自己主義に陥っている、欲心の多い男性の虎のような人でも、利他主義になれば、穏やかになり、絵にかいたお月様のような姿になり、凍りついていた口も、にこりと開くのです。また、「好」という字を見れば、子と女が合わさっています。母と子供の合わさったもののようにも思えるし、男と女が合わさったようにも見えます。どちらにしても、人が包括されるのです。その合わさる力が愛情という怪物なのです。
 もう少し本質をえぐるならば、夫婦喧嘩は刀で水を切るようなものという言葉がありますが、刀で水を切るならば、傷は残りません。一度喧嘩しても、笑うならば終わるのです。利他主義なくして平和は現れないという事を、身近な夫婦という題材で表現しているのです。もう少し、突っ込んで表現すると、私達の習慣として、神社仏閣を大切にします。お参りも良くします。それでも、その神社仏閣が最も大切なところでは無いと思うのです。その神社仏閣よりも大切なものは、男性の愛情がほとばしる器官と女性の器官のはずなのです。ここで過ちを犯す人が多いようです。それが人生を狂わせる原因となるのです。
 かつてのイスラエルの歴史で、アークという至聖所に間違って触れると、イスラエル民族が急死したのです。これと同じような至聖所のような人間の愛の器官に触れると滅びるという事でしょう。という事は、夫婦であるとするならば間違わないように、愛の器官と愛情を守る神主や巫女にならなければならないということです。もし愛の器官や愛情を占領しようとするならば、自分の夫と妻を最高に尊く思わなければならないという事になります。自分の生命以上にということです。そのような本質論の話をすることも必要であろうと思って書いています。
 それでは、それが極真会館の運営とどんな関係があるのかということです。神聖な道場の内部で指導員と道場生、あるいは婦人が脱線行為に至らないようにするということです。また道場生が、修行半ばで、人生を誤ってしまうような不義な愛情に至らないようにと言うことなのです。道場生が、その至聖所をお金で買うとしたら、それも許されないことと思って修行に励んでください。その器官は理想やすべてのものを所有するために夫婦として出発するものであり、夫婦としてお互いが所有しあう大切なものであるという位置づけが必要であると思うのです。そのぐらい道場は神聖であり、人生の修行に集中できるところとしてあると思ってください。