2014年7月11日(八段語録2070)

共に歩む人生(11)

 千順さんの心を読もうとすると、水が流れるように、多くのことに関心を持つのです。私の母の介護、夫、子供達、地域の人たち、そして、広島の実家の事、全てをどのようにしたらよいのかと心を砕いて、心配するのです。そして、自分のこととなると、何も関心を持っていないような、雰囲気なのです。彼女は、朝から働きずくめなのに、それでも心は、自分以外のすべてを満たすかのようにしているのです。彼女は、愛情の絆を持とうとする人だと心から、尊敬してしまうのです。そのような姿を身近で眺めている私にとって、伴侶としてここまで、寄り添えたことに、何とも言えない感慨深いものを感じてしまうのです。
 それは、千順さんのすべての感覚を集中させて、一点に結ぶ力として表現しているのです。五感のことを表現するならば、目は、「全てを見たい」と願い、耳は「すべてを聞きたい」と願い、口は「多くを話したい」と願うようです。それだけでなく、全ての細胞が、五感に働こうとしているようです。ちょうど、高い頂で避雷針が雷を呼び込むのと同じように、神経のすべての感覚を羅針盤のように束ねようと作用しているようです。
 当然、千順さんの心に愛情が宿るようになると、全ての感覚は、五感の一カ所に集中して、衝撃を受けて作用するようです。一度作用すると、目は目なりに、耳は耳なりに、鼻は鼻なりに、手は手なりに、全てが作用するようです。このようになると千順さん自身の為にというよりは、愛する人の為に働いてしまうということになるのかもしれないのです。
 ところで、そのような現象を自然の中に発見するのです。自然は千順さんのように、あらゆるものを供給しているのです。母親から供給を受けて生きているように、自然からあらゆるものを供給されていることに気が付くのです。そして、供給を受けて大きくなっているのです。子供は母親の胎内で栄養と空気を受けて生きていると同じように、地上で栄養と空気で生きるようになります。そして、その根本を探すと、栄養や空気が源泉ではなく、愛情を中心として生きていることに気が付くのです。父母であったり、夫婦であったり、親子であったり、このような愛情が大切なのです。
 そうすると、生命の要素で一番大切なものは一体なにかということに気が付くようになるのです。ちょうど、母親のおなかの中でも空気を吸収しなければならず、出てからも空気を吸収しなければならないと同じように、人にとって、第一の生命要素は、愛情であるに違いないと思えるのです。
 そのような意味では、千順さんの生き方は、愛情のために生きているという一言がすべてであるように思えるのです。当然、私にとっては、愛情の限界を超えているようにも感じてしまうのです。こう考えると、私たちの家庭は、千順さんの愛情で結合され、抱かれ、花開くようになっていると思えるのです。三十数年連れ添っても、全く飽きることもなく、未だに初愛を抱いている私は、幸せ者だと思うのです。