2014年7月3日(八段語録2062)

共に歩む人生(3)

 今でも妻のために無限に愛情を注ぎたいと思うのです。妻に対して、愛情の心を持った夫であるからだと思ってもらいたいと願うのです。妻が立派になって、家族のために大きな心と更に、夫よりもさらに、人格的に素晴らしい妻になることを願うのです。そのためにも、妻のために何かできないかと、私の行動が愛情の作用として誘発されるのです。夫として、自分らしい存在となるためにも、妻のために存在しなければならないと思うのは、古今東西に通じることなのです。それだから、わが家庭としては、今まで過去・現在・未来とあらゆることを克服することができ、いつも良き家庭として発展してきたのです。
 さて、自分の妻が、息子・娘よりも劣ることを願う夫ではないのです。愛情溢れる心は、もうすでに、恋人として出会ってから始まっていることであり、私の生命まで捧げようとしたことなのです。このことが、家庭を築いてきた根拠地であることに、間違いはないのです。気が付けば、妻のためと無限の価値を投入してみると、自動的に妻は素晴らしくなっていくのです。ちょうど、太陽と地球の関係と同じように自転と公転を繰り返すようになるのです。太陽と地球のように、循環する球形の範囲の中にあるものは、互いに影響を与えることができるようになるのです。今までのことですが、途方もなく素晴らしい人生を歩んできたという気持ちにさせられます。
 ということは、こうして家庭を築いてきたということで、この家庭という活動舞台は、「私」のものとして所有してしまっているのです。太陽と地球のように、自動的な循環の原則を通して、永遠に愛情が注がれるであろうという論理も設定もされ、展開もするのです。
ところで、私が妻に対してお金や、宝石や、着物、知識とか権力といったもので、心の支えにしようとするならば、終わりが必ず来ると思うのです。もうすでに、世間は証明しているのです。人としての事情の中だけでは、すべてに終わりがあるのです。やはり、私は、終わりがないような永遠に続くような内容を望むのです。それは理想主義者であると片づけるわけにはいかないのです。
 結果として、今まで、妻に対しては、偽りは言うまいと決意もしているのです。偽りは、言い始めてから、どんどん愛情関係は落ちていくのです。そんな関係よりは、妻とは大きな世界まで抱擁してしまうほどの、かき抱ける包容の心を持ちたいものだと思うのです。そして、妻が私よりも気高く、大きくなって欲しいのです。よくブログにこのようなことを書くものだと思う人も何人かはいると思うのですが、何を言われようとも、このように生きたほうが、私の心は納得するのです。だからと言って、模倣しなさいということでもないのです。ただ、生き続けてきた証を書いているのです。