2014年7月2日(八段語録2061)

共に歩む人生(2)

 私は、妻と食事をしても、長く共に居たいし、生活しても共に生きて、苦楽を共にできたならばいいと思っているのです。変わることのない愛情の本質としては、希望の二人でありたいと思うのです。私は、生活においても、どんな弁明もすることなく、ましてや捏造もせず、自分も忘れてしまうくらい一緒にいたいと思うのです。そして、私の心は、妻の心の中の広さに感服し、その心をいつのまにか、自分のものにしようとするのです。それだから、何故かしら、妻と話し合って何事にも取り組むと、事故と事件に巻き込まれなくて済んでしまうのです。愛する妻であるがゆえに、また表現してしまうのですが、共に居たいし、共に生活したいし、千順さんの心の中に深く入り込んでいきたいと思うようになっているのです。
 そのようにいつも思うので、妻は私にとって、絶対に必要な人だと考えてしまうのです。そのように考えるだけで、妻との距離はないのです。日々背を向けても、背を向けることもできず、愛すまいとしても、愛さざるを居られない自分の姿を見るのです。つい最近も、私の願いを話してしまいました。私は妻にとって、お父さんではないし、妻は私にとってお母さんではないと言い寄ったのです。つまり、夫婦ということが大切であり、夫婦関係を忙しさのあまり、ないがしろにしてはならないのではないかと、強い口調で話したのです。愛情の主体の夫を、夫婦に留めておくべきであると主張したのです。この表現も、妻との日々を大切に思うからだと私は、思うからなのです。
 そのようにしてでも、妻が私に繋がって欲しいという欲求がありありだと感じてしまうのです。だからと言って、家族に対して、「今月これだけ働いたのだから、その分を返してほしいとか」ということは、口が裂けても言うことでもないし、家族に投入して、また投入して、その全てを忘れてしまうような日々でありたいと思うものです。私の哲学として、投入することが、偉大な人生であると思うに至っているのです。妻の苦労を眺めていても、家族のために、困難を克服して、犠牲になっているのです。それでも、ちょっとした不平は口にするのですが、家族のために、愛情あふれる影響を及ぼしているのです。
 結論的に表現して、私の生きている根本は何かと問うならば、妻に捧げるということなのかもしれないのです。それは、愛情がなければ続かないし、生命があるのも、そのためにあると思っているのです。それだから、一人では、成立しない話なのです。私の生き様は、妻を中心に喜んでいるようですし、妻を見て躍動いるようですし、妻と話して感動いるようなのです。私は、もうすでに、妻の代わりとして、妻を擁護し、敬うところから、妻のために何ができるかということを発想しながら、生きていることに、生きがいを感じてしまうのです。