2011年8月13日(八段語録1407)

私と全国組織(77)別荘に森家集合

 泉ヶ岳の麓に、畑と田圃そして別荘があるのです。大したことがない埴生の宿ですが、兄弟が集まるのに、いつも誰も住んでいないために、気兼ねなく集まりやすいのです。私の家族は、アメリカからのお嫁さんの茂奈さんを含めて8人、二男の家庭は夫婦と明日美ちゃんの3人、三男は、夫婦と夏美ちゃんと歩美ちゃんの4人、合計15名も集まるのです。にぎやかな雰囲気で、会話が弾みます。毎回なのですが、親父は涙を浮かべて喜んでいるのです。もう年齢も84歳なので、涙もろいのです。お袋はというと、気丈に振る舞っています。銀行から下ろしてきた小遣いを孫達に上げるのが楽しみのようです。孫達も年少の歩美ちゃんが中学一年生であり、年長の聖義が専門学校生で22歳になるのですから、家族も充実してきて、幸せな親族であるという事なのです。もうすでに二十年も続いているのです。
 この別荘は、年3回兄弟家族が集まってきます。正月に集まり、ゴールデンウイークである5月に集まるのです。それは、親父の誕生日なのです。そして三回目がお盆の日という事なのです。集まるごとに幸せを噛みしめるのです。何かしら、この集まりを良き日にしようと兄弟が努力している姿があるのです。一生懸命生きてきて、ここで顔を合わせてほっとするのです。つまり、幸せの最高峰に立つような気持ちなのです。両親のそばに、何事もなく幸せに暮らしてきたという証をするのです。この別荘にくるまで、いろいろなことがあったのでしょう。しかし、この別荘に集まれたという事は、無事に過ごせたという事であり、両親を安心させたという事なのです。
 両親からすると、兄弟が集まり、孫たちが集まってくることに、至福のひと時を感じるようです。まさに幸福の最高峰に上った気分なのです。両親の姿は感謝で満ち溢れているようなのです。いつものように別荘では、子供達一人一人に話をするのです。また孫にも尋ねるのです。そのようにして、両親が生きてきた人生の価値を噛みしめるようなのです。今も両親が揃っていて、一人では無い、まして寂しくない姿が幸福という形で表現されているのです。何故そうなのかと私なりに考えるのでが、人間存在の根源の立場が、子供たちを集めて愛でるところにあると思うのです。その姿が人としての根本になっているのです。この状態がいつまでも続けば良いと思うのです。
 しかしながら、人間の寿命は限りがあるわけですので、このままの状態で兄弟家族が、歩むことではないのでしょう。それでも、両親を中心として、人間において一番大切な生命が、幸福とか、その愛情の要素と光線が作用している中にあるという事に、何かを感じるのです。私の両親は、このような圏内にあるという事で、良き人生を歩んでいると言って過言でないのです。両親が家族達の中心であるのです。その中心に本当の価値や生きがいを備えていることになるのです。
 したがって、両親の人生は、確かに苦労の連続であったのです。しかし、別荘に磁石のように引きつけられてくる子供達、孫達を眺めて暮らせるという事は、両親に愛情が在って、吸い寄せられているのだと思うのです。両親の心情が人倫道徳に合致しているのです。今、森家が統一性を保ち得る状態は、私たちの心を動かす両親の愛情があればこそあると改めて感じるのです。