2014年6月13日(八段語録2058)

娘へ(13)

 心に永遠の愛情が溢れているので、娘への愛情は変わらないのです。そうでなければ、親が娘に影響を与えることはできないと思うのです。これは、親として変わらない気持ちなのです。天地が変わっても、この思いは、公約として宣言するのです。もし親の心が変わったとしたら、娘からの信頼は無くなってしまいます。変わらないので信頼は続くのです。親として変わらないという、土台の上に愛情は生まれるのだと思うのです。ですから、食べる時も、寝る時も活動する時も、娘への愛情の為に変わらない気持ちを抱こうとするのです。そうでなければ、娘との親子と関係は空しいものになってしまいます。
 そうだから、昼も夜も娘がどうしているかと思いを馳せらせるのです。娘に何か問題が起きるかもしれないと保護しようとするし、また障害があるとするならば、それを取り除いて防御しようとするのです。だから親とは、無限に損をするようなものだと思うのです。それだから、このような本性を持つ親としては、善の道を歩んでいるのではないかと自負もするのです。娘は「この愛情は少ない」と思うかもしれないのですが、そのような気持ちを思わせないためにも、あらゆるものを補いながら、愛情を更に付け加えようとするのが、これまた親なのです。
 ところで、娘とはどこで連結されるかと考えると、生命と交流するところ、愛情が交流する所、理想が交流する所で連結されたと実感するのです。それは、最高の喜びでした。娘の愛情の主体となっており、生命の根源になっており、理想の源として、威信と体面を超越してしまうところなのです。ためらうことなく、娘を掴むことができ、抱きかかえることができ、骨と肉が溶けてなくなってしまうところでもあったのです。人として、想像できない高次元の愛情に酔う事ができる接点であったことは間違いないのです。
 私にとって、娘はダイヤモンドよりも大切なのです。何故なら、親として愛情を分かち合える存在だからなのです。情緒的な事だと思うのですが、夫婦の愛情から娘は出たのであり、親からの愛の分岐があり、根幹から伸びていく枝葉のように、切っても切れない,関係であり、知らないうちに、いつの間にか娘を引っ張って行っているのです。このような事を書きながらでも、娘の行く末を案じている親という事なのです。だから、大切な時間を更に過ごそうと思うのです。こんな気持ちをぶつけては日々を送っている親であるのです。私は、娘を永遠に、死んだとしても抱き続けるのだと思うのです。そんな存在を持った私は、どんなに幸せなのかと思うのです。