2014年5月22日(八段語録2044)

親の苦労が子供達に分かる為に

 良き家庭を築く道を今まで歩んできたというのが私の人生であったと思うのです。このような意識で人生を過ごした人は、意外と少ないのではないかと思うのです。私の両親にしても、生活するために生きてきたというのが現実であったと思うのです。そして、そのことが子供達に理解してもらうには、これまた大変な努力が必要になってきているのも事実なのです。ただ子供達が育ったという事では、私の生き様を子供達に理解してもらえないと思うのです。どのように家庭を築いていけば良いのかというノウハウを学んで欲しいと願うわけです。そのような意味では、子供達にただ生きるための人生を示してきたのではなく、どのように良き家庭を作っていくべきかという事を、身を持って準備してきたという事になるのです。
 子供達の前に、親としてしっかり立ち、親を中心として、共に生活をしてきたという事なのです。子供達に親の思いを接ぎ木して、子供達を引き上げる努力をしてきたという事にもなるのです。そのような意味では、我が家に生まれて誇りを持って、子供達は過ごしてきたのではないかと思うのです。決して卑屈な思いにはさせなかったと自負するのです。子供達に、私が必要とするようになっているのは、一般に考えるように、ただ教育するために経済的援助をするだけではなかったのです。正しい生き方を、親として実践して、それを子供達に示すという壮大な意味合いを持たせたのです。
 ところで、私はというならば、真面目に人生を歩んできました。心身を練磨し、自己完成に努めたのです。その大半を担った修行が極真空手であったという事は間違いのないことなのです。妻と出会い、愛情あふれる夫婦としての努力も怠らなかったのです。これも、自分との戦いといえばそうなのです。そして、社会でどのように生きるかという指導的な発想も示してきたのです。子供達に、どのように兄妹を探すべきか、父親を探すべきか、母親を探すべきか、そして、恋人と出会い「私の家」をどのように探し出し、良き家庭を築くべきかという基本的な方向性を示してきたのです。
 そのような決心をして、歩んだ私の願いはというならば、私から愛された子供達が「家和万事成」を実現できる環境で、正しく生活をするという事でした。それだから、私の人生は、結構厳しい道を歩んだという事になるのです。決して浮気をすることなく、法律を犯すことなく、人の道を外れないという決意そのものの生き方であったのです。普通でしたら、経済的安定や、社会的な地位や名誉を求めて生きそうでしたが、そのような事には、見向きもせずに、ただひたすら、精神的な健全性を求めたのでした。それで、わが家を誇れる人生が充実して良き人生であろうと結論つけているのです。