2011年8月11日(八段語録1405)

私と全国組織(75)生活は結果が問題

 今日も実に朝から暑いのです。いつものように娘の順香と朝のチラシ配布をするのです。起床を四時半にしているのですが、昨日の疲れが残っていて、起きるのに苦労します。洗面所で頭から水道の水をかぶり、気合をいれます。それでもって早速スイッチが入ったという実感からスタートになります。もう娘は今年の大震災以降共にチラシを配布してくれているのです。親子の直接の絆の時間を大切にしようとしているのです。もう少し過ぎたならば、「お嫁に行くのだろうな」と自分に言い聞かせながらつぶやくのです。隣にいる渡辺先生も、三時間の時間を辻立ちに費やしています。今までの苦労の集積を、一挙に晴らそうとする勢いです。僅かに残された時間を活動しているという感じが強いのです。
 さて、この生活基準が正しいのかという事を自分に言い聞かせます。良いこと、悪いこと整理しながらの日々なのです。喜怒哀楽を人生舞台にぶっつけて、「何が善であり、何が悪なのか、何故心が嬉しくなるのか、何故悲しくなるのか、原因がどこなのか」青年のように探究するのです。結局は疲れて寝てしまうのです。それでも一つだけ自分に言い聞かせていることがあるのです。悪の結果を絶対に出さないようにする生活を自分に課そうと思っているのです。
 それは、どういう事なのかというならば、簡単なことなのです。「交通違反をしないとか、人に迷惑をかける行為をしない」という事なのです。悪がどんなものかは深いことはわかりませんが、結果罪を犯さないという事に全力を傾けているのです。いろいろ人生としての生き方はあるのでしょうが、結果を問題視している人生観を持つようになっているのです。ある意味で消極的と思われるかもしれませんが、罪を絶対に犯さない決意は人一倍強いのです。自分の中で軌道を絶対に外れないという信念なのです。
 この私の信念は、結果にこだわるのです。それ故に、難しい事ではないのです。「交通違反を結果としてしないとか、家庭を壊す行為は絶対にしないとか、暴力を振るわないとか」という内容なのです。生活の中で良心の呵責を受ける場面はいくらでもあるのです。しかし、引っ張られていく自分を戒めて、この事を切り離してしまおうという強い意志を持とうとするのです。これは、人生に対しての減点方式なのです。どんなに素晴らしい事をしても、減点があってはならないという生き方なのです。
 ありがたいことに、結果として、家庭を破壊する行為をしていないのです。暴力も振るっていないのです。それを妻子に対する貞操と心得ているのも事実なのです。自分に言い聞かせていることがあるのです。悪い思いを持つことが悪いのではなく、結果として悪いことをしてしまう事が問題であるという信念なのです。私の性格からして多情多感なものですから、思いまで管理しようとすると、もうすでに生きてはいけない状態までなってしまいます。そういう意味では、お寺の坊さんの修業は無理のようです。