2014年4月11日(八段語録2028)

私の起源

 私が存在するという事を考えると、起源について、あるいは本質について考えてしまいます。私の本質とは何かがとても重要になってきます。「多くの人のために生きる」という事を本質にすると、とても心が嬉しくなります。思いやりが私の本質でありたいと願うのです。知識を好んでも、すぐに忘れてしまいます。お金を求めても、自己の欲望を満たすという事だとすると、何に使うか迷ってしまいます。ましてや権力など一時的なものでしょう。いつかは無くなってしまいます。それだから、青い鳥ではないのですが、何かを探そうとするのです。その何かは、尽くすことができる相手という事になるのです。

 私は自分の起源ゆえに、何故生きているのかという疑問にぶつかります。心に浮かぶことは、愛するための相手を見つける事であろうという事が、的確なような気がするのです。現実に、私の妻が生き生きして元気であることを願います。また輝いていることを誇りに思うのです。そして、妻が仮想空間ではなく実体であることがうれしいのです。妻が身体をまとってくれていることが何よりも喜びなのです。ふと考えるのですが、先にあの世に妻が逝ってしまったら、実体がない状態になるので、私は衝撃や振動を受けることができないので、悲しくなってしまうと思うのです。

 ところで、あらゆる面で、妻との会話は、ありがたいものです。何気ない言葉で勇気づけられるのです。その言葉に、音楽以上に合わせることができるのです。更に、いつしか、衝動的な刺激を受けて喜びを感じている自分に気が付くのです。自分の思いだけですと、空間的な広がりは少ないのですが、妻と話していると、一点だけでなく、東西南北の三百六十度のパノラマ状態に広がっていきます。自分自身の愛情を確かめるためにも、妻の存在は欠かせないのです。すなわち、妻がいて、関係を結んでこそ可能であるという経験がたくさんあるのです。孤立しない自分は、愛情を感じることができるという事に気付くのです。

 結論、妻がいなくなれば、関係を持つことができなくなります。妻がいないのに関係を持というとすれば、自分に損害を生じます。つまり、自分を保護しようとするので、損害が生じる所では、心は動かないという事です。だから、離婚はしたくないのです。妻と生きて共に生活したいというのが私の願いという事なのです。それゆえ、私の起源は、最高の何かを持っているという事であり、愛情という尊いものを感じて生きるという事なのです。そのためにも妻が必要になってくるのです。このように考える起源ゆえに、妻が必要なのです。