2014年4月2日(八段語録2022)

自然の中で

 根白石の畑で、ジャガイモの土壌を作る作業をしていました。天気は晴れていて、程よい風が流れていました。太陽が輝く中に自然は、私の為にあるという実感を過ごしていました。とても幸せな時間を過ごしたという事なのです。それ以上望むものは無いようにも思えるのでした。最高の自然の中に、最高のもの得ているようでした。よく存在と生命とどちらが先かという事を考えているのですが、哲学という学問は存在から始めようとします。しかし、このような自然を体験すると、生命の絆から物事を考えていこうという気にさえなります。私が何よりも愛情を先にする理由はここにあるのでしょう。

 このような自然の姿を感じる中で、存在を眺め動かすのは、私自身のような気がします。そして、私はというならば、愛情を感じることで、生命を動かしているようです。愛情によって出発し、愛情の関係に従って動き、愛情の結果を訪ねていくというような自分自身の行動のように思えます。このように、情緒的な生き方をするのが私という事になるのです。いくら、地位があって名誉があったとしても、愛情を感じることができないような人生であったら、孤独な人生と言わざるを得ないのです。そのような意味でも、情緒的な動機を中心として活動しようとするのが、私自身という事になるようです。

 ところで、私は、毎年同じようにジャガイモを植えるのですが、今回も創造の能力を持って、去年の環境を片付けて、新しいジャガイモつくりをしようとします。そうすることができる能力を持っているのも私自身なのです。同じ畑なのですが、新しく創造する環境になっているのです。そして、今年以上に来年は、新しい何かを創造する事に連結されていくのです。この自然豊かな畑に対しても、私の考えで耕すのです。そして計画をして、実践していくのです。このような創造性の能力を秘めているという事に感謝してしまうのです。

 そこで、この畑で何を得ていこうとするのかというならば、ジャガイモを収穫するという事ですが、それ以上に刺激を受けるのです。たかがジャガイモですが、そこに希望の刺激を感じるので耕すのです。その為に、今日は畑に投入するのです。畑は、私の特権的価値を見出すようになるのです。なぜならば、私自身を投入しているからなのです。投入したすべてがプラスされて、収穫まで生き生きと畑は生育するのだとおもうのです。そうすることによって、私が見つめて、私自身が刺激的な幸福感を感じることができるという事なのです。