2014年3月10日(八段語録2018)

自分を完成させるという事は家庭を完成させるという事

 自分を全うするという事に対しては、今は家庭を維持するという事に通じると思っているのです。つまり、家庭を完成させるという事は、自分を全うするという事に尽きるという思いになっているのです。そのような事が、言えるのも還暦を過ぎたからかもしれません。これが自分と家庭の一体理想という事になると思うのです。

つまり、人生の究極的なモデルは家庭であると思うようになっているのです。親になる道、夫になる道、主人としての道という事なのです。そのような、師としての道を行くのが人生であると思うようになっているのです。

 究極的には、家庭というものが代々順送りされていくという事になるのです。私はというならば、子供達を生んで、育てて、立派にしていくという事の人生なのです。それが、家庭理想という事になるのでしょう。当然、家庭を形成しようとするならば、子供達を生んであげなければならず、育ててあげなければならず、立派にしてあげなければならないという事になるのです。それを私がするという事です。これを、毎日の生活信条にしなければならないと思うのです。

振り返れば、世の中が混乱していればいるほど、正しく指導できる師がいなければならないのです。それを、求めてきた人生でもあるのです。結構、真面目に生きてきたという事なのかもしれないのです。このように、人生を真剣に考えて生きてこようと思えたのも、良き家庭を持てたからであると思うのです。

 ところで、私は、極真会館という団体をで、師として頑張ってきたのですが、それは、まだ不十分であると思っているのです。それだから、どんなに最低限でも、父親という道だけはしっかり見出して生きようとしてきたように思うのです。子供達にとって、良き父親になっていれば、いずれは良き師になる道も見出されるのではないかと思うわけです。理由は、今まで、経験してきた空手修行の内容を、道場生の為に生きる天理の位置に立つことができればという事なのです。そうすることを人生の最終的目的として成就していきたいと思うのです。それなりに、決断して生きてきたことになるのです。

 結論として、人生の鍛錬をしてきましたが、若かりし頃から、心を如何に強くしようかと思ってきたのです。心でしか、父親にはならず、師にもなれないと思ったからです。それだから、世俗的な事に対しては、嫌悪感もあったのです。それでも、その心を、今までの人生、どれほど軽視してきたかという事になると、何も言えなくなってしまいます。心を如何に軽視し、ないがしろにしたかという事を自分で反省するばかりです。どれほど、自分の心を弄んだかという事の悔いばかりなのです。これだけ努力してきたにもかかわらず、不十分であるという気持ちだけが、心に残るのです。だから、もう一度はじめから、人生を過ごそうという気持ちになるのです。