2014年3月5日(八段語録2015)

心の主人

 家庭を持って感じることなのですが、振り返ると、感情のみが蓄積されるのです。嬉しかった感情、悲しかった感情、つまり、喜び悲しみの深さと広さを体験してきているようです。そのことによって、人情が広がってきているのだろうと思うのです。妻は、地域の婦人達との付き合いと、下宿屋をやっていますので、下宿人の面倒をよく見ています。私はというならば、地域社会の活動をしているので、地域の人達と、極真空手の道場生達と行政の人と様々な人達との絆があります。それで、夫婦の関係は希薄になるかというならば、お互いが、そのような事を話しながら、お互いに喜んでいるのです。

 本来ならば、結婚して過ごした日々が、希望を持って躍動しながら、毎日の生活の中でお互いが包まれて、満足し、あらゆることに感謝することであれば申し分ないのでしたが、そうではない日々も続いたわけです。今日の私が、どのような気持ちでさまよい、どのような視線と、どのような五官を持って生活を営んできたかを考えてしまうのです。当然、誰かが、私を管理し、指導し、さらに、困難にぶつかれば、擁護して導いてくれるとしたならば、どれだけ問題なく生活できたかと思うのですが、そのようにならないのが現実なのです。

 ところで、このように、60歳まで生きてきて、どのような運命の紆余曲折に置かれても、守る家庭があるという事は、あらゆる事情が生活感情を越えて、自分の生涯の願いの心を抱き、歩まなければならない人生であるという思いになるのです。つまり、今までの人生の経験は、家族の為であると思うようになるのです。そして、子供達と共に語り合い、子供達と共に動きたいと願うようになるのです。そして、良い生活と、より美しさと、より心のこもった愛情を探し求めるのです。それは、心が正常に動いているからなのだと思うのです。

 結果、このような家族を認識し、このような社会を認識し、このような世界であるという事を認識し、歩みを止めて再び実情を見つめようとし、自分自身に対しても注目しようとするのです。ここまで生きてきてみて、これからの人生に対して、家族という単位で考えるようになるものです。今までの人生以上に、多くの人の肥やしになり、多くの人の行くべき人生の光となることができるようにしたいと思うのです。それが、心の主人としての今後の歩みになるのではないかと思うのです。