2014年2月17日(八段語録2008)
眼に見えないもの(良心)
眼に見えなくても空気はあります。そして、空気を吸って生きているのです。空気は何の味もありません。見えもしません。それでも、空気があることをはっきりわかるのです。また、同じように心があることを知っています。見えませんが、心があることをはっきり知っているのです。心が見えないからと言って、無いとは言えないのです。たえず感じるからです。さらに、私と妻は、毎日二人で寝起きを共にしています。何の変哲もない生活ですが、夫婦生活を止めようとしないのです。理由は、愛が存在しているからです。
家庭で、妻と私が一緒にいる所が、中心なのです。子供達も、その輪の中に入ろうとします。もちろん、自分の心の中心なのです。夫婦が調和した愛の中心点、垂直に、純粋に保たれているのです。その根幹を支えているのが、良心という事になります。夫婦の愛の軸が留まるとするならば、いくら小さくても、自分の良心のはずです。心身一体化した、その良心です。これまた目に見えないのです。
私は、家族を形成してから、もう三十六年になります。この家族は、私にとって、最高に重要なのです。もちろん、手塚グループの根底が家族なのです。その家族はというならば、愛の根であり、生命の根であり、血統の根であり、良心の根であるのです。家庭がうまくいかないとするならば、私自身と家族が一つになっていないからでしょう。つまり、愛と共に、生命と共に、血統と共に、良心と共に一つになりさえすれば、家族は正常に動くはずです。どこかが違ってくると、家庭は崩壊してしまいます。この事が原因です。気を付けてください。
私は、空手道を追求していく以前に、家族道を追求しているようです。私には、否定しようとしても否定できない良心があります。それを望む力が働くのです。もちろん、邪心なるものもあるでしょう。しかし、邪心は気持ちが良くないのです。あくまでも私を刺激して、引っ張り、押してくれる力があるのです。それが紛れもない良心なのです。この良心は高くなることを願っています。この良心は、実に曲者です。空手の修行をするにしても、私を常に現在の自分よりも良くなれ、良くなれと催促するのです。決して低くなるようには促しません。今日よりも明日、明日よりも明後日、今年よりも来年、行けばいくほど、更に高く、更に価値のある自分を形成しなさいと促すのです。
極真空手は、この良心を満足させるためにあるようなものです。そして継続して高次元の何かを追求するのです。良心があることを絶対的に認める限り、私の極真空手道は続くのです。だから、良心は私の番人のようなものです。良くないことをしようとするようなものなら、眠りから覚めて、「おい、こら!」と叫びます。そして、より価値のある要求を作用させるプラス的要件がそこにはあるのです。