2014年2月4日(八段語録1991)

指導者に告ぐ


 極真空手が目指している究極的の道は、武道を通じて、人間性と人格の完成を目指すことになるのです。それゆえ、このような真実の基準、すなわち自由な人格を体現しようとすることに、道場生同士共に切磋琢磨するという事になるのです。それも、究極には親になっていくという事なのです。そうすることによって、よき「家族」が形成され、それが結局は最高の理想という事なのです。実に簡単な事なのですが、それが出来なくて、苦悩する人が多いという事は、実に悲しいことなのです。極真空手は、武道を通じて、このような近くにある理想を宣伝し、それを成就し、それを現実のものにしようとして、空手道に打ち込むのです。もちろん、空手道は、理想の実現の、一つの手段であることは間違いないことなのです。
 もし、指導者の皆さんが、何らかの形で怪我をして、体に傷をつけたとしたならば、その中に何があるでしょうか。どんなに多くの箇所を切ったとしても、その中にある血液は同じであるという事は、至極当然のことなのです。そのような意味においては、人体という魂なのです。その肉体が精神の人格化を、極真空手道で磨きをかけ、「家」を大事にする人間に育て上げるのです。それゆえ、一人一人は、黄金の輝きを持っているという事も言えるのです。
 そのような意味では、価値観が多様化している現代社会に、極真空手という物差しを持っているわけです。基本的には、センチメートルで測ります。その本来の基準です。その基準は二つの異なったものでは無いのです。一つです。極真会館の最初の本来のセンチメートルは一体何でしょうか。それは、直ちに大山総裁という事になります。つまり、創始者という事なのです。極真会館で空手を習うという事は、創始者に近づくことであり、更にいうならば、追い抜くことなのです。そのような意味での物差しを持っているのです。
 つまり、指導者の皆さんが、自分がどういう人間であるかという事を見て、そして、大山総裁に物差しを合わせて測ってみると、自分がどれだけのものであるかという事を見出すのです。そして、皆さんがそれを見て、「どうのこうの」と判断するようになるのです。もちろん、現実には身近な先輩がその役割を果たすことになるのです。その物差しがどこにあるかというならば、驚くべきことに、稽古をしていく中で、道場生ひとり一人が持つようになるし、自分がどのようなレベルまで達しているかという事を図る能力を持つようになるのです。