2014年2月1日(八段語録1985)

指導者に告ぐ


 この極真会館の火が消えるまで、私は前進するのです。この仙台の街を毎日回っています。来る日も来る日も、パンフレットを持ちながら、街の面積はもう既に、頭にインプットしてしまっています。仙台市内を駆けずり回っているわけです。道場生も、そのような状況で入門に至ってケースもあります。私の二本の手と二つの目と、そして足は、今でも無傷でいます。私は指導者に皆さんと同じようなものを持っていますが、しかし、道場生を指導する能力とか、戦う精神とか、物事をあきらめないことは、ここにいる道場生以上の意欲を持っているのです。
 その違いは、決意と献身、つまり精神の中にあるのです。指導者の皆さんには、どのような戦いに臨むにしても、決意が必要です。私達は気高く立って「いかに風が吹こうとも、いかに多くの嵐が雇用とも、自分はここに立て決して止まらない」と思わなければならないという事です。厳しい状況でも、あらゆることに取り組もうとする人は、どんな女性でも好きになるのです。そうすることによって、タフな人間にもなることができます。私が決意することは、「自分の目が最後に閉じてしまうまで、誰にも他の人の手で開けさせないぞ、自分はこの極真の道をできるだけ強くつかんで決して離さない」という事ができる精神を抱くことです。
 一般的に最近感じることは、今の若者には、強い伝統を持った歩みをしていないようなきがします。ただ、自分だけの人生があるだけだと思っているのです。この国の伝統と比べたならば、塵ほどしかない時間しか抱いていないという事なのです。
 このような観点しか持たない若者は、非常に伝統が少ないと思うのです。風の吹くままに流れるという傾向があるのです。もし、風が東に吹けば、東に行くのです。西に吹けば、西にいきます。伝統がないということは、同性愛を蔓延させ、家庭破壊を平気で行える土壌となります。フリーセックスを自然だと思えるような環境はいつでも出来上がってきます。いつしか、恥という概念さえなくなってしまいます。
 このようなタイプの人と、極真で武道精神の伝統を背負った道場生の間には、隔たりが生じます。もちろん、強いものという伝統を背負った方です。そして強い方が生き残るのです。誰であっても、より多くの伝統を背負うものや、多くの努力を注ぐものが主体となって、働きが少ない者が対象となるのです。このように書いていくと、当然、伝統を背負った方が有利であると思えるようになるのです。そして中途半端でなく、この道をしっかり行進するのです。