2014年1月29日(八段語録1981)

指導者に告ぐ


 最初に極真会館の門を叩いた時には、組手が中心で、凄まじい殺気に満ちていたものでした。毎日道場に通って、必ず三十分位の総当たりがあったものです。一日一時間近くという事もまれにありました。こういった初期のころを考えると、私は、指導者の皆さんと、当時の深い経験を分かち合いたくなるのです。その当時、何度も先輩に挑戦しては、そのたびごとに、敗北し続けたものです。それで、同じ道場生も、また無謀な挑戦をして、先輩に負けていると、言われ続けてきたのです。
 当時の私は、先輩に挑戦し続けて、勝つことはできなかったのです。このような事が毎日起こりました。そのような意味では、私が先輩を倒すことができるかという事を噂になったくらい、激しく食らいついたのです。そのうち、後輩までも、「無駄な抵抗だ」といわんばかりの表情になっていたことを思い浮かべてしまいます。当時の道場生は、生き証人みたいなものです。そのうち、二三か月すると、一回ぐらいは、組手を優勢にすることができるようになってきたのです。その瞬間、涙を流してしまった覚えがあるのです。
 私が、最初に、組手で勝とうとしてから数か月して、優勢に対戦できたことは、奇跡のように思えたものです。それで、私の心の中には、少なくても、試合で一勝できるように道場生を指導しなければならないと思うようになっているのです。別の観点で考えると、組手を優勢に対戦できるようになるための、時間と場所の確保をしてきたのです。その費やした気持ちはいかばかりでしょうか。毎日道場に通って、それから、一人前の組手をするようになるまで、必死であったという事なのです。
 一般に道場生が組手の価値を知らずに、食わず嫌いになることは、実に嘆かわしく、悲劇な事です。最近の道場生は、組手に関心を持たないようです。その為に、試合に出場して、新しい境地に至ろうとする道場生は少ないのです。私は将来に対する希望から、組手を中心とするプログラムも重要であると考えています。もちろん、組手そのものの性質上、敬遠することもあるかもしれません。それを踏まえながら、指導していくのが真の指導者であると思うのです。極真空手の組手というものは、素晴らしい人間形成を含んでいるのです。それで、組手に関心を持たないという事になれば、正しんで海底に沈むのを放っておくようなものです。実に無駄な事です。