2014年1月24日(八段語録1976)

指導者に告ぐ


 極真空手の伝統と復興について、考えたいと思います。私が極真空手を始めたころは、柔道が正義の味方で、空手は悪役でした。その代表が、映画での姿三四郎でした。しかし、入門したての頃は、ブルースリーの「燃えろ・ドラゴン」ジャッキーチェーンのカンフー映画が盛んに放映されるようになったのです。更に、地上最強の空手が映画館をにぎわせました。更に少年マガジンに「空手バカ一代」が連載されるようになると、もう空手の復興は止まりませんでした。極真会館として、全国にも、支部が増えるようになり、極真空手人口は増えていくようになりました。
 大山総裁は極真空手の復興を起こすために、文字どおり、あらゆる代価を払って、伝統を打ち立ててきたのです。それを忘れて稽古などできないのです。極真空手の運動は、基盤をこの水準まで引き上げるために、相当な投資をしてきたという事なのです。実際に、儲けたお金を湯水のように、総裁は失っていったのでした。それはただ、極真の伝統を、世界というレベルまで引き上げるための単なる犠牲だったのです。
 もちろん、このような状況の中で、多くの詐欺師が池袋本部道場に群がり、搾取してきたこともよく知っています。本部道場にいたことは、このように搾取するような人達に腹を立てたものでした。一般の人達も、極真空手について多くが関心を持つようになりました。もちろん、すべての人達が、何かされるようなことを感じていたわけではないのです。そこで、私達は見世物のように、利用しようとする人たちに、あらゆる機会で演武会を行わされてきたのです。そのような現状に対して、総裁が進めていったのは、各県に確固たる支部を設立していく事でした。道場生が辛い修行をしてきたわけですから、詐欺師のような人に頼らず、自分達で道を開くという事だったのです。それでも、利益の大部分は詐欺師のような人が持って言ったのでした。
 当時の支部は、仙台の場合、アパートの一室だったりしたのです。他でもマンションの一室を借りて始まったのです。支部の拡充によって、本来の形がうまれ、誰からも奪われない権利が現場の師範に与えられたのでした。そのようにして、本来の極真精神が、各県の師範を中心に取り戻していったのでした。私の場合も、他の空手道場がやっているような、新聞に投書をして載せてもらうという事はしないのです。確かに世間に知らせることにもなるのですが、利用されることになることも多いのです。
 かつて、極真空手も、仙台で河北新聞と一緒になって、「一力杯」といって大会をしていた時期があります。それは、その時の師範の考えでしたが、私の場合、そのようなマスコミなどに頼ろうとはしないのです。私の場合、そのような状況を変えて、本来の極真の精神を取り戻したいという考えだったのです。あくまでも、成功をもたらすのは人間の精神なのです。私はそれを証明しようとして立ち上がっているのです。