2014年1月10日(八段語録1953)

指導者に告ぐ


 本当の極真の指導者は、稽古を愛します。どうしてでしょうか。それは、今までの道場生が、汗を流してきたからです。私も今でも稽古をしっかりするようにしています。だから、今の指導者は、稽古をしっかりしなければならないのは、当たり前のことです。皆さんは、本当の極真空手の継承者なのでしょうか。それともそういう振りをしているだけなのですか。子供は親から色々なものを受け継ぎます。皆さんはどうですか。道場で稽古をして、どれほど大山総裁の伝統を受け継いているのでしょうか。
 私が皆さんの先頭に立って、皆さんよりも何年も、何十年も先駆けて、極真空手に専念してきたことは知っていることだと思うのです。私とて、易しい道を選択することはできました。内容をマスターしたわけですから、○○会・○○塾として、立ち上げることもできたはずなのです。そのほうが、しがらみに煩わされることなく、空手道を進めたのかもしれないのです。
 もし、その道を歩んで、一生懸命頑張っていったとしても、私の良心は苦しむのは目に見えています。そのような、気持ちがあるから、指導者に対して、厳しいのです。どんなに意にそぐわなくても、菅野師範の門をくぐれと叫ぶのです。それは、自分の意に叶うときは嬉しいのですが、かなわない時は苦しむのです。そのような道であってこそ、人として立派に育つという確信があるのです。なぜならば、師範から愛されるのではなく、愛していかなければならないのです。認められることを願うのではなく、その指導者を認めるという努力を願うのでしょうか。このパワーを身に着けなければ、人の為に何かをするという事に関しては、限界を感じるのです。自分の好き嫌いという、わがままで終えてしまいます。
 次に、師範の位置を立て続けていくという精神です。これは、自分が能力あると思う人であればあるほど、下剋上の気持ちが持ち上がってきます。一時は、従う素振りをしますが、すぐに批判的になって、悪口を言うありさまです。かつての指導者の中で、優秀な人がおりました。その人を、自分よりも劣るような指導をしている人の補佐についてもらったことがあるのです。思いもよらず、辞表を持ってきました。そして、武道家として、あってはならない行動に出たのでした。
 それから、押忍としての精神が問われるのですが、この精神が三番目に重要になってくるのです。平たく言うならば、屈服するという事なのです。私も、神奈川で初段を取った人を指導者に育てようと必死になった時期がありました。最初は、よく訓練されていると思えるほど、押忍の精神で仕えてくれていました。しかし、段々と自我が現れて、私が誤りを指摘するようなことになると、もう話は聞かず、自分で自分の道を行くと言い残していきました。
 最悪は、悪口の繁殖をしてしまう人でした。自分で留めることもできず、その悪口で、心を満たそうとしたのでしょう。このような、精神は、まったく武道精神とは関係のない世界での出来事なのです。人格でさえ、成長することは無いのです。私が急き立てるのは、このような道を通過させ、精神力を高め、乗り越えさせようとするからなのです。そのような事を強要しようとする私を気が違っているように思えるかもしれませんが、心の葛藤をより的確に掴み、解決策を指導しようとするのですから、この道場で訓練されることは幸運な事であると思ってほしいのです。課題をしっかり認識した人に、解決策を提示するのです。