2014年1月4日(八段語録1947)

指導者に告ぐ


 誰が極真会館を受け継ぐのかという課題があります。私達の道場でも、男性の指導者はもとより、女性の指導者が増えてきました。そのような意味では、道場生は男女ですから、理想的な道場になってきているのです。では、その理想とは一体どういうことなのかというならば、男女の指導者がいることによって、細かく道場生に気配りが行き届くという事になります。お互いに、配慮しあいながら、より愛情の浸透した道場運営ができるという事になります。効果は共に尊敬しあう関係が生まれてくるという事に他ならないのです。
 では、指導するという事は、どのような事であるかというならば、心技体の全てを駆使して、愛情を浸透させるという事なのです。その経路はどのようなものでしょうか。指導者を度外視して、道場生に直接たっするのではないのです。簡単です。指導者が、指導力を得るためには、対象の道場生が存在してはじめて成り立つのです。指導者にすべてが備わって優秀であるようでも、指導者一人では、教室は成立しません。満足に指導もできません。指導力という性質そのものは、道場生が必要なのです。極端な表現ですが、指導者が指導者たらんとするならば、指導力は道場生から来るものであると言って過言ではないのです。
 ところで、指導力の性質に似あわない現状もおきてきます。指導していると言いながら、「ギブエンドテイク」の状態を作れない一方的な指導方法しか身に着けていない指導者です。「統一と調和」があって、そこから初めて指導力が発揮されるのですが、それを無視して、あたかも指導しているように思っている人たちです。指導力を得るという事は、あくまでも相手のお蔭なのです。指導には必ず押す力と引く力が働きます。指導者から出発する力量と、道場生からくる刺激が調和されて初めて、道場の雰囲気が盛り上がります。その雰囲気とは、指導者と道場生の中心に湧き上がってくるのです。
 その雰囲気が、指導者を満たし、道場生の気持ちを納得させるのです。指導者側からみるならば、自分と道場生のどちらが偉いのかという事になります。それは、平等であるという議論をする必要はないのです。その行き過ぎが、今の日教組になっているではないでしょうか。教師が労働者になってしまい、生徒に媚を売るような内容です。
つまり、私が言いたいのは、中心と軸が盛り上がっていれば、どちらが偉いかという議論は不毛であるという事です。そのような意味では、盛り上がっている雰囲気を醸し出す、中心と軸を作ることができるかどうかという事になるのです。指導者と道場生の間に、中心と軸が作ることができれば、指導は成功するのです。一般にどのような運動をするにしても、中心と軸は必要なのです。それだから、稽古という事に置き換えても、中心と軸を作るように努力すべきなのです。そのような、道場運営の状態を作ることによって、極真空手を継承していく事ができるのです。