2011年7月30日(八段語録1393)

私と全国組織(63)サマーキャンプを終えて


 昨日、さよならパーティーで、各国の人々が会場で交流を深めて、夜を明かしたのでした。そして、今日の朝食後には、思い出の会場を後にするのですが、審査会の発表もアラン師範からありました。ほとんどの道場生が合格していましたが、修練を積んだ方が良いと判断されたメンバーに関しては、保留されていました。しかし、当然アラン師範の事ですので、すぐに会長の方に昇段の申し込みが来るのです。これもアラン流という事なのです。
 多くの道場生が各国に帰るのです。充実した様子が何とも言えないのです。もちろん色々と集積された疑問をアラン師範が会長に話しかけてきたのです。特に、円とユーロの変動相場に関して、一定して円建てにする方が、会長に取って安定して良いという話をするのです。さらに、武道の伝統とは別に、昇段における段位の価格にまで踏み込んで話は弾んでしまったのです。
 何故ならば、今回アラン師範が、今回二段、三段、四段という高い各位の段位を出したのです。当然なのですが、ブラックベルトに金線が入るだけなので、価格を上げる必要がないのではないかという提案でした。どのグループも段位が上がると、それと伴って各位が認められ、それに対する帯の評価も変わってきます。その日本の伝統は、そのグループの責任を持つものに、それだけの責任と信頼を寄せるという意味を含めて、襲名するような重い帯になるのです。
 ところが、ヨーロッパの合理的な判断からするならば、原価基準をするという事になるのです。私も柔道出身なので、ブラックベルトの重みを理解できるのです。今回の昇段に関しては、ビジネス的発想で、昇段を許すという事にはならないのです。まさに、マルクスの労働者的発想が渦巻いたわけなのです。弟子が、生涯をかけて、責任者の地位を受け継ぐという原点を忘れてはならないのです。その立場を道場生に公に評価してもらうのが、段位という事になるのです。それを、襲名披露として、後援者に求めるのではなく、自分で僅かばかりの金銭で満たしていくのです。それは、本人にとっては、全てを投げ打つ覚悟が必要になってくるのです。要するに、家という範疇で考えると、長子権の相続に値するもので、その家を任された人物に相当するわけなのです。
この件に関して、会長は、烈火のごとくアラン師範との会話を拒否したのです。確かに金銭的には、条件的な金額の上乗せしかないのですが、そこには、あらゆる威厳が隠させているのです。その伝統はビジネスで平準化されるわけではないのです。これは、会長に提言してはならない、日本独特の文化なのです。踏み込んではいけない一線という事になるのです。
 それは、たかが紙切れ一枚と同じなのですが、長子権という重い責任が生まれるのです。私も思いも依らぬ発想に戸惑ってしまいましたが、ヨーロッパでは当たり前の考え方になるのです。合理主義とは、戦わなければならないという発想を会長はするのです。今回の考え方を会長に話したことは、アラン師範の減点に相当するものでした。まさに、武道の根幹を覆すものと受け止められても仕方がありません。金銭だけの内容ではないのです。
 その後、会長の怒りは、合宿所の部屋の中でも納まりません。いつでもヨーロッパと仲違いしても良いというような言葉が連発されます。アラン師範も、このような結果になるとは夢にも思わなかったのだと思います。何故なら、会長から、今までヨーロッパの基盤を築いてくれた功労者としての誇りを段位に代えて、無償で八段を与えたからなのです。その価値を仇で返されたような出来事だったのです。
 やはり、段位は重いものです。それがこの極真の道における修業の誇りであり、権威なのです。私も、今までの四十年間の極真の歩みが思い出されますし、修練の数々が重い出されます。その重みを抜きにして、手塚グループはないのです。会長も安易にアラン師範に八段を与えたという事を反省しているようでした。それだけ、帯に品格と重みがあるという事なのです。
ところである団体における民族優遇措置で、側近を自分の民族の一員で世界を固める例はあるのです。その世代は良いのですが、次の世代になった場合、問題が生じるのは当然の事のようです。やはり、修行度合いを重んじていくという、全世界平等な運営が求められるのではないかと考えさせられました。一律に公式路程を通らなければ、責任者にはないという原則が必要なのです。そして、一定のレベルがなければ、責任を任すことが出来ないという事も必要であると感じるのです。