2011年7月18日(八段語録1378)

私と全国組織(48)広島審査会


 朝一番に日本航空の飛行機で羽田から広島に飛びました。六時五十五分発という事もあって、上野のビジネスホテルに宿泊です。四時半には飛び起きて、山手線で浜松町まで行き、そこからモノレールで空港までのオーソドックなコースです。機内では、パソコンでおもむろに、思い当たったことを書き記しているのです。
 五十歳までは、行動が先立って、文章に書くという行為は、そんなに無かったのです。しかし、半生を生きてみて、様々に考えたことを記録していくような意識になったのです。若かりし頃は、記録するより、現実を求める方向が先でした。あらゆることにチャレンジして、完全燃焼させることが、人生の生きがいであったのです。
 私に蓄積された人格的内容が未熟でも、完全投入なのです。歓喜の渦を体験せずには、今日生きたという実感を持てなかったのです。そのような意味では、空手道は私にとって、「持って来い」というような、道具だったわけです。稽古時間内は、気合を入れながら、燃焼し尽くせたからなのです。
 もちろん、私の家庭に対する対応も、同じ考えでした。妻の千順さんとの夫婦生活も、一瞬を大切にしたのです。所帯を持った頃は、お互いに、別々の仕事をしていましたので、帰ってきて顔を見ては、会話が始まります。もう止まらないのです。これからの夢や理想がお互いの口から飛び出します。その一瞬一瞬の積み上げが今に至っているのだと実感もするのです。
 当時アパート生活でしたので、隣に声が漏れて、苦情を言われることも、しばしばありましたが、それでも話が尽きないのです。家庭を出発したばかりなので、貧しい環境でしたが、刺激的な日々を私たち夫婦は送っていたことになります。
 いつの間にか、三人の子供たちに恵まれました。その子供たちに対する教育の切り口は、当然空手道なのです。父親と子供たちの教育環境の舞台もやはり、道場での稽古でした。子育ても一瞬を大切に、積み上げてきたのです。その延長が、聖義二十二歳、仙台接骨専門学校に通うも、茂奈ちゃんと結婚、順香二十歳、福祉大学三年生、文誉十九歳尚絅学院大学一年生という私の成果なのです。楽しい思いをプレゼントされたことに感謝の心でいっぱいになります。
 そのような事を考えている内に、広島空港に到着です。宮城師範が迎えに来てくれました。審査会で待っている子供たちに会うと、私も空手着に着替えて、稽古をし始めているのです。審査会で、道場生に愛情を注ぎたいという事が動機になっていました。私が審査をして帰るだけという行為には、耐えられなかった訳です。何かを印象として残したかった訳なのです。
 指導を試みて、宮城師範とは大分違って、昔スタイルに稽古に戸惑う道場生もおりましたが、稽古の後の話し合いで納得していたようでした。やはり、ここでも最高の感動を与えたいし、感動を持ち帰りたいという衝動になったのでした。
 何回か審査会に出席させてもらったのですが、審査会ごとに、私のスタンスとスタイルの違いに、宮城師範は戸惑うばかりですが、道場生は、新鮮な気持ちで迎えてくれるようでした。もちろん次の審査会でも、どのような刺激が待っているのか、今から楽しみなのです。