2011年6月28日(八段語録1358)

私と全国組織(28) 空手の修行はそれ自体目的ではない 人間目的の手段にすぎない

 空手道を追及するという事は、一人ひとりの道場生の人間としての成長を計るという事なのです。極真空手という内容を追及する事が可能なのは、ただ強さだけを求めようとする事ではないのです。それは浮浪者のようになるだけにすぎないのであって、決して正しいという道ではないのです。
 さて、その事に言及するのですが、極端に言うならば、空手自体目的ではなのです。白蓮会館の大会で多くの道場生が入賞して、素晴らしい成果を上げているではないかという事を話す父兄も多いのです。しかし、私達の道場は、人間としての目的を達成する為の手段としてのみ意味を持つという事を断言するのです。
 道場における道場生の切磋琢磨をして修練した切れ味のある技は、確かに強さを発揮し、実践空手としての破壊力をまして、誰にも負けないのです。しかし、最高に強いという技だけを誇って、人間修行の道をから外れるとするならば、修行が幻想になってしまうのです。
 つまり、空手道としての価値は一転してしまうのです。私達が持つ空手道の信条というべき心得は、修行をしてきた対戦相手を尊敬するところから始まるのです。一人ひとりを大切にする平等で自由な発想と尊厳性を持つ事が原点になるのです。
 今までの、空手道の大会を振り返って持ても、武道精神とはかけ離れた、私的なチャンピオン意識しか道場生も師範達も持たなかったのです。その為に個人の空手の修行は、優勝だけを目的とする狭い領域に閉じ込め、人間修行という意味ある領域に与える影響を最小限度にしてしまったのです。
 確かに、切磋琢磨しながら、勝利を目指す事も大切ですが、空手道は、人間成長の目的達成の手段であるという道場方針は、動かないのです。媒介であって、目的ではないのです。四十年もの長い歳月を、極真空手道という道を追及してきた結論なのです。もちろん勝つための練習をしてきました。それで終わりではないという事を、私自身、全身で示すつもりなのです。
 今日も、僅かな時間でしたが、畑に出向くのです。今年は、例年になく玉ねぎが巨大なのです。差し当たって、去年の二倍の大きさに育っているのです。大きな玉ねぎを収穫して、倉庫で乾かしてきたのですが、大きさに「たまげて」しまいました。この大きな玉ねぎの収穫が、道場生の成長になるように祈るばかりなのです。
 次の日曜日には、北峰会での東北大会が模様されます。30人前後の人達が参加するのですが、大会の入賞だけにこだわることなく、道場生の成長を願って欲しいのです。かつて私達の道場で不穏な動きがありました。大会で敗北した私達の選手に、禁じ手のような、事を行ったのです。その輩が、大会で敗北した道場生の親と接触して、私の道場ならばチャンピオンになれると触れまわって、根こそぎ、奪っていったのでした。
 今でも、その輩の活動は続いていますが、何の意味合いがあるのか分かりません。私達の精神とまるっきり違っているのです。その輩に対して軽蔑はしませんが、私達と違った考え方を持った団体として、呆れるばかりです。それでも、選択は、親ですから批判もするわけではないのですが、口惜しいばかりです。