2011年6月27日(八段語録1357)

私と全国組織(27) 極真空手を楽しむ

 正直、山形大会から帰ってきて、ちょっと気持ちがくすぶっていました。色々な思いは脱ぎ捨てて、空手道の原点に帰ろうと思うのです。空手ができるという事は、空手を楽しむ事ができるという事と思えるのです。それでも、すべてを楽しめるわけではないのです。というのも、毎日の稽古という決まり切った事を繰り返さなければならないのです。
 毎日空手をやるとう事は、きまりきった基本内容が山ほどあるのです。今の私の稽古を振り返って見ると、空手に関する時間を一日の労働時間ほど取っているのです。面白くなくとも、空手を考えているのです。稽古も毎日重ねているのです。つらくとも、毎日続けているのです。いや続けなければならないのです。
 私の場合、面白くなくとも四〇年経過しても、更に進歩しようと心がけるのです。私の心身に空手道の生命が宿るように日々歩み続けるのです。それだから、きまりきった事でさえ、基本として楽しむ事ができるということになるのです。
 昨年の10月に、庭仕事をしている最中に、脚立からひっくり返るという事がありました。当然強打した肩は未だに痛むのです。可動範囲が少なく、空手の技を出すことは、痛みと引き換えなのです。それでも、空手道を推し進めてきた私には、楽しもうとするのです。
 右の手の動きは、決まり切った技を出すがゆえに、同じように痛むし、しなければならない動作もあるわけなのです。しかし、空手は楽しいのです。このような修行を原点にして、今の組織があるわけなのです。それ故に、普通のサークル組織との違いも生まれてくるのです。
 凡庸と一流という違いというよりは、学んでいる組織と学んでいない組織の違いなのです。私達の場合、組織そのものが、成長しているのです。確かに、未熟なメンバーの集まりかも知れませんが、社会から忘れられないであろうという自信を持っている組織なのです。
 話は、昨日の続きになりますが、この宮城県本部として、一人ひとりの道場生に成果を上げさせてやらなければならないと思うのです。その為に、他団体への大会は、道場内で選手を確定させる競争をさせて、誇りを持って大会に臨ませてあげることができればと思うのです。
 その事が、師範の役割であり、選手会を体系としてのマネジメントということになるのです。その為に、選手会が役割として果たさなければならないのです。選手会を生命体として、誇りある存在にしなければならないと感じるのです。そのような立場で、道場生に自己実現させてあげなければならないと考えてしまいます。
 私は、選手会に願う事は、道場生に、社会生活と個人の生活の高い質を提供しなければならないのです。加えて、指導者に、極真空手としての正当性を持たせなければならないのです。正統なものとしての誇りと、権限の根拠を、宮城県本部の特性に置かなければならないと思うのです。正統性の原理は一つしかないのです。極真空手によって最大限に生かされる道場生を育てる事なのです。それが、極真会館の目的であり、権限の源泉であるのです。まさに、社会に貢献し、かつ自己実現する為の私達でなければならないのです。